・・・私はその時に不図気付いて、この積んであった本が或は自分の眼に、女の姿と見えたのではないかと多少解決がついたので、格別にそれを気にも留めず、翌晩は寝る時に、本は一切片附けて枕許には何も置かずに床に入った、ところが、やがて昨晩と、殆んど同じくら・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・が、現在の自分を振り返ってみても、別に出世双六と騒がれるほどの出世ではない。相変らずの貯蓄会社の外交員で、うだつがあがらぬと言ってしまえばそれまでだが、しかし、もう私にはたいした望みもない。私を誘惑する大阪の灯ももうすっかり消えてしまい、か・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・「……さあ、実は何です、それについて少しお話したいこともあるもんですから、一寸まあおあがり下さい」 彼は起って行って、頼むように云った。「別にお話を聴く必要も無いが……」と三百はプンとした顔して呟きながら、渋々に入って来た。四十・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
1 ある蒸し暑い夏の宵のことであった。山ノ手の町のとあるカフェで二人の青年が話をしていた。話の様子では彼らは別に友達というのではなさそうであった。銀座などとちがって、狭い山ノ手のカフェでは、孤独な客が他所の・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ この青年は、なぜかそのころ学校を休んで、何とはなしに日を送っていましたが、私には別に不思議にも見えませんでした。 午後三時ごろ、学校から帰ると、私の部屋に三人、友だちが集まっています、その一人は同室に机を並べている木村という無口な・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・自分の生、労作は厳として別になければならぬ。書物にあまりに依頼し、書物が何ものでも与えてくれ、書物からすべてを学び得ると考えるような没我主義があってはならない。実際研究することは読書することであると考えてるかのように見える思想家や、学者や学・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・自分の前に倒れているその男を見ると、別に憎くもなければ、恨を持っているのでもないことが、始めて自覚された。それが不思議なことのように思われた。そして、こういうことは、自分の意志に反して、何者かに促されてやっているのだ。――ひそかに、そう感じ・・・ 黒島伝治 「橇」
わたくしの学生時代の談話をしろと仰ゃっても別にこれと云って申上げるようなことは何もございません。特にわたくしは所謂学生生活を仕た歳月が甚だ少くて、むしろ学生生活を為ずに過して仕舞ったと云っても宜い位ですから、自分の昔話をして今の学生諸・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・彼らは、明白に意識せるといなとは別として、彼らの恐怖の原因は、別にあると思う。 すなわち、死ということにともなう諸種の事情である。その二、三をあげれば、天寿をまっとうして死ぬのでなく、すなわち、自然に老衰して死ぬのでなくして、病疾その他・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・自分では興奮も何もしていないと云っていたし、身体の工合も顔色も別にそんなに変っていなかったが、約一年目に出てきたシャバは、矢張り知らずに彼を興奮させていたのだろう。 これは、田口の話である。別に小説と云うべきものでもない。 ・・・ 小林多喜二 「独房」
出典:青空文庫