・・・私はこの間別れ際に、あの人の目を覗きこんだ時から、そう思わずにはいられなかった。あの人は私を怖がっている。私を憎み、私を蔑みながら、それでも猶私を怖がっている。成程私が私自身を頼みにするのだったら、あの人が必ず、来るとは云われないだろう。が・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・部屋へと二人は別れ際に、どうぞチトお遊びにおいで下され。退屈で困りまする。と布袋殿は言葉を残しぬ。ぜひ私の方へも、と辰弥も挨拶に後れず軽く腰を屈めつ。 かくして辰弥は布袋の名の三好善平なることを知りぬ。娘は末の子の光代とて、秘蔵のものな・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・と彼女の方でそれを娵に言って見せて、別れて行く人の枕許でさんざん泣いたこともあった。「お母さん、そんなにぶらぶらしていらっしゃらないで、ほんとうにお医者さまに診て貰ったらどうです」と別れ際に慰めてくれたのもあの娵だった。どうも自分の身体・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・と子安は別れ際に高瀬に言った。 高瀬も佇立って、「畢竟、よく働くから、それでこう女の気象が勇健いんでしょう」「そうです。働くことはよく働きますナ……それに非常な質素なところだ……ですけれど、高瀬さん、チアムネスというものは全くこの辺・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・彼女が別れ際に残して行った長い長い悲哀を考えた。 恐らく、彼女は今幸福らしい……無邪気な小鳥…… 彼女が行った後の火の消えたような家庭……暗い寂しい日……それを考えたら何故あんな可愛い小鳥を逃がして了ったろう……何故もっと彼女を大切・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・などと云った。別れ際に「ぜひ紹介したい人があるから今晩宅へ来てくれ」と云って独りで勝手に約束をきめてしまった。 約束の時刻に尋ねて行った。入口で古風な呼鈴の紐を引くと、ひとりで戸があいた。狭い階段をいくつも上っていちばん高い所にB君の質・・・ 寺田寅彦 「異郷」
出典:青空文庫