・・・人の力を以て過去の事実を消すことの出来ない限り、人は到底運命の力より脱るゝことは出来ないでしょう。」 自分は握手して、黙礼して、此不幸なる青年紳士と別れた、日は既に落ちて余光華かに夕の雲を染め、顧れば我運命論者は淋しき砂山の頂に立って沖・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・心の深い人は到底幸福説で満足できるものではない。これはアングロ・サクソンの倫理学である。ニイチェの如きは「最大多数の最大幸福主義」を賤民の旗じるしとして軽蔑している。がそれにもかかわらず、社会的、政治的の実行上の目標は結局この旗じるしの下に・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 二、プロレタリアートと戦争 一 プロレタリアートは、社会主義の勝利による階級社会の廃棄がなければ、戦争は到底なくならないということを理解する。プロレタリアートの戦争に対する態度は、ブルジョア平和主義者・・・ 黒島伝治 「反戦文学論」
・・・地球の軌道は楕円の環をなしていると君達は思うだろうが大ちがいサ、実は月が地球のまわりを環をなしながら到底は大空間に有則螺線を描ていると同じ事に、地球も太陽に従ッて有則螺線を大空間に描いているのサ。即ち自転も螺旋サ。又一年の動きも螺旋サ。有則・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・数の弱者が直接・間接に生存競争の犠牲となるのは、目下の所は已むを得ぬ現象で、天寿を全くして死ぬちょう願いは、無理ならぬようで、其実甚だ無理である、殊に私のような弱く愚かな者、貧しく賤しき者に在っては、到底望む可からざることである。 否な・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・子供は到底母親だけのものか、父としての自分は偶然に子供の内を通り過ぎる旅人に過ぎないのか――そんな嘆息が、時には自分を憂鬱にした。そのたびに気を取り直して、また私は子供を護ろうとする心に帰って行った。 安い思いもなしに、移り行く世相・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・人の誠実を到底理解できず、おのれの自尊心を満足させるためには、万骨を枯らして、尚、平然たる姿の二十一歳、自矜の怪物、骨のずいからの虚栄の子、女のひとの久遠の宝石、真珠の塔、二つなく尊い贈りものを、ろくろく見もせず、ぽんと路のかたわらのどぶに・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ 到底分らないような複雑な事は世人に分りやすく、比較的簡単明瞭な事の方が却って分りにくいというおかしな結論になる訳であるが、これは「分る」という言葉の意味の使い分けである事は勿論である。 アインシュタインの仕事の偉大なものであり、彼・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・洋装の軍服を着れば如何なる名将といえども、威儀風采において日本人は到底西洋の下士官にも肩を比する事は出来ない。異った人種はよろしく、その容貌体格習慣挙動の凡てを鑑みて、一様には論じられない特種のものを造り出すだけの苦心と勇気とを要する。自分・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・そうして肉の註文を受けたことが事実であるとすれば赤は到底助かれないと信じた。赤犬の肉は黴毒の患者に著しい効験があると一般に信ぜられて居るのである。太十は酷く其胸を焦した。五 次の日に懇意な一人が太十の畑をおとずれた。彼は能く・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫