・・・……火をもって火を制するのだそうである。 ここに女優たちの、近代的情熱の燃ゆるがごとき演劇は、あたかもこの轍だ、と称えて可い。雲は焚け、草は萎み、水は涸れ、人は喘ぐ時、一座の劇はさながら褥熱に対する氷のごとく、十万の市民に、一剤、清涼の・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 威をもって制することならずと見たる、お通は少しく気色を和らげ、「しかしねえ、お前、そこには人情というものがあるわね。まあ、考えてみておくれ。一昨日の晩はじめて門をお敲きなすってから、今夜でちょうど三晩の間、むこうの麻畑の中に隠れて・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・と、声ではなく、ただ制する手ぶりをした女が見える。吉弥だ。 僕はすぐ二階をおりて外へ出た。「………」まだ物を言わなかった。「びッくりして?」まず、平生通りの調子でこだわりのない声を出したかの女の酔った様子が、なよなよした優しい輪・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・毒を以て毒を制するのだ。かまう事は無い、と胸の奥でこっそり自己弁解した。「嫉妬さ。妬けているんだよ、君は。」少年は下唇をちろと舐めて口早に応じた。「老いぼれのぼんくらは、若い才能に遭うと、いたたまらなくなるものさ。否定し尽すまでは、堪忍・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・の火事で入道さまが将軍家よりおあずかりの貴い御文籍も何もかもすっかり灰にしてしまったとかで、御所へ参りましても、まるでもう呆けたようになって、ただ、だらだらと涙を流すばかりで、私はその様を見て、笑いを制する事が出来ず、ついクスクスと笑ってし・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・ 私は、最初にヴァレリイの呟きを持ち出したが、それは、毒を以って毒を制するという気持もない訳ではないのだ。私のこれから撃つべき相手の者たちの大半は、たとえばパリイに二十年前に留学し、或いは母ひとり子ひとり、家計のために、いまはフランス文・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・まことに茶道は最も遜譲の徳を貴び、かつは豪奢の風を制するを以て、いやしくもこの道を解すれば、おのれを慎んで人に驕らず永く朋友の交誼を保たしめ、また酒色に耽りて一身を誤り一家を破るの憂いも無く、このゆえに月卿雲客または武将の志高き者は挙ってこ・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・ロシアは八かましいと聞いていたから、自ら進んでスートケースの内容を展開しようとしたら税関吏の老人はニコニコしながら手真似で、そうしなくてもいいと制するのであった。尤もその前に一枚のルーブリの形をした信用状が彼のかくしに這入っていたのであった・・・ 寺田寅彦 「チューインガム」
・・・としきりにわが足を玩べる人、急に膝頭をうつ手を挙げて、叱と二人を制する。三人の声が一度に途切れる間をククーと鋭どき鳥が、檜の上枝を掠めて裏の禅寺の方へ抜ける。ククー。「あの声がほととぎすか」と羽団扇を棄ててこれも椽側へ這い出す。見上げる・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・その原因は他なし、この改進者流の人々が、おのおのその地位におりて心情の偏重を制すること能わず、些々たる地位の利害に眼をおおわれて事物の判断を誤り、現在の得失に終身の力を用いて、永遠重大の喜憂をかえりみざるによりて然るのみ。 内閣にしばし・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
出典:青空文庫