・・・ もう酔のまわった牧野は、初めの不快も忘れたように、刺身なぞを犬に投げてやった。「あら、あの犬によく似ているじゃありませんか? 違うのは鼻の色だけですわ。」「何、鼻の色が違う? 妙な所がまた違ったものだな。」「この犬は鼻が黒・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・彼はその晩も膳の前に、一掴みの海髪を枕にしためじの刺身を見守っていた。すると微醺を帯びた父は彼の芸術的感興をも物質的欲望と解釈したのであろう。象牙の箸をとり上げたと思うと、わざと彼の鼻の上へ醤油の匂のする刺身を出した。彼は勿論一口に食った。・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・自由と活動と、この二つさえあれば、べつに刺身や焼肴を注文しなくとも飯は食えるのだ。 予はあくまでも風のごとき漂泊者である。天下の流浪人である。小樽人とともに朝から晩まで突貫し、小樽人とともに根限りの活動をすることは、足の弱い予にとうてい・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・しかもその日、晩飯を食わせられる時、道具屋が、めじの刺身を一臠箸で挟んで、鼻のさきへぶらさげて、東京じゃ、これが一皿、じゃあない、一臠、若干金につく。……お前たちの二日分の祭礼の小遣いより高い、と云って聞かせました。――その時以来、腹のくち・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・桃、栗、柿、大得意で、烏や鳶は、むしゃむしゃと裂いて鱠だし、蝸牛虫やなめくじは刺身に扱う。春は若草、薺、茅花、つくつくしのお精進……蕪を噛る。牛蒡、人参は縦に啣える。 この、秋はまたいつも、食通大得意、というものは、木の実時なり、実り頃・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・菜切庖丁、刺身庖丁ウ、向ウへ向ウへとウ、十一二度、十二三度、裏を返しまして、黒い色のウ細い砥ウ持イましてエ、柔こう、すいと一二度ウ、二三度ウ、撫るウ撫るウばかりイ、このウ菜切庖丁が、面白いようにイ切まあすウる、切れまあすウる。こいに、こいに・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 今日は不漁で代物が少なかったためか、店はもう小魚一匹残らず奇麗に片づいて、浅葱の鯉口を着た若衆はセッセと盤台を洗っていると、小僧は爼板の上の刺身の屑をペロペロ摘みながら、竹箒の短いので板の間を掃除している。 若衆は盤台を一枚洗い揚・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 天辰はこの雁次郎横丁にある天婦羅屋で、二階は簡単なお座敷になっているらしかったが、私はいつも板場の前に腰を掛けて天婦羅を揚げたり刺身を作ったりする主人の手つきを見るのだった。主人は小柄な風采の上らぬ人で、板場人や仲居に指図する声もひそ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・しばらくすると、刺身、煮肴、煮〆、汁などが出て飯を盛った茶碗に香物。 桂はうまそうに食い初めたが、僕は何となく汚らしい気がして食う気にならなかったのをむりに食い初めていると、思わず涙が逆上げてきた。桂正作は武士の子、今や彼が一家は非運の・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・ 空腹のとき、肉や刺身を食うと、それが直ちに、自分の血となり肉となるような感じがする。読んでそういう感じを覚える作家や、本は滅多にないものだ。 僕にとって、トルストイが肥料だった。が、トルストイは、あまりに豊富すぎる肥料で、かえって・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
出典:青空文庫