・・・ 賢造は口を開く前に、まずそうに刻みの煙を吐いた。「困ったな。――もう一度電話でもかけさせましょうか?」「そうですね、一時凌ぎさえつけて頂けりゃ、戸沢さんでも好いんですがね。」「僕がかけて来ます。」 洋一はすぐに立ち上っ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・と同時にタイプライタアは、休みない響を刻みながら、何行かの文字が断続した一枚の紙を吐き始めた。「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、この上なおも申上ぐべき必要無き事と存じ候。されど貴下は溺愛の余り……」 今西の顔はこの瞬間、憎悪そ・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 母はだだ広い次の間に蚕の桑を刻み刻み、二三度良平へ声をかけた。しかし彼はそんな事も全然耳へはいらないように、芽はどのくらい太いかとか、二本とも同じ長さかとか、矢つぎ早に問を発していた。金三は勿論雄弁だった。芽は二本とも親指より太い。丈・・・ 芥川竜之介 「百合」
・・・魴ほうぼうの鰭は虹を刻み、飯鮹の紫は五つばかり、断れた雲のようにふらふらする……こち、めばる、青、鼠、樺色のその小魚の色に照映えて、黄なる蕈は美しかった。 山国に育ったから、学問の上の知識はないが……蕈の名の十やら十五は知っている。が、・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ 小鼻に皺を寄せて、黒子に網の目の筋を刻み、「御都合じゃからお蝋は上げぬようにと言うのじゃ。御随意であす。何か、代物を所持なさらんで、一挺、お蝋が借りたいとでも言わるる事か、それも御随意であす。じゃが、もう時分も遅いでな。」「い・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ と額にびくびくと皺を刻み、痩腕を突張って、爺は、彫刻のように堅くなったが、「あッはッはッ。」 唐突に笑出した。「あッはッはッ。」 たちまち口にふたをして、「ここは噴出す処でねえ。麦こがしが消飛ぶでや、お前様もやらっ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・――はい、店口にござります、その紫の袈裟を召したのは私が刻みました。祖師のお像でござりますが、喜撰法師のように見えます処が、業の至りませぬ、不束ゆえで。」 と、淳朴な仏師が、やや吶って口重く、まじりと言う。 しかしこれは、工人の器量・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・その上に重厚沈毅な風に加えて、双眉の間に深い縦の皺を刻みつつ緊と結んだ口から考え考えポツリポツリと重苦しく語る応対ぶりは一見信頼するに足る人物と思わせずには置かなかった。かつ対談数刻に渉ってもかつて倦色を示した事がなく、如何なる人に対しても・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・安二郎の顔にはみるみる懊悩の色が刻みこまれた。罵倒してみても、撲ってみても心が安まらなかった。安二郎は五十面下げて嫉妬に狂いだしていた。お君がこっそり山谷に会わないだろうかと心配して、市場へ行くのにもあとを尾行た。なお、自分でも情けないこと・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ 彼は、自然さをよそおいつゝ人の耳によく刻みこまれるように、わざと大きな声を出した。「栗島が出した札かい?」局員はきゝかえした。その声に疑問のひゞきがあった。「あゝ、そうだ。」「たしかだね?」「うむ、そうだ。そうに違いな・・・ 黒島伝治 「穴」
出典:青空文庫