・・・往きにもまして一層滅入った、一層圧倒された惨めな気持にされて帰らねばならぬのだ―― 彼は歯のすっかりすり減った日和を履いて、終点で電車を下りて、午下りの暑い盛りをだら/\汗を流しながら、Kの下宿の前庭の高い松の樹を見あげるようにして、砂・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・家の入口には二軒の百姓家が向い合って立っている。家の前庭はひろく砥石のように美しい。ダリヤや薔薇が縁を飾っていて、舞台のように街道から築きあげられている。田舎には珍しいダリヤや薔薇だと思って眺めている人は、そこへこの家の娘が顔を出せばもう一・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・彼も家の出入には、苗床が囲ってあったりする大家の前庭を近道した。 ――コツコツ、コツコツ――「なんだい、あの音は」食事の箸を止めながら、耳に注意をあつめる科で、行一は妻にめくばせする。クックッと含み笑いをしていたが、「雀よ。パン・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・家の前庭のおおきい栗の木のしたにテエブルと椅子を持ちだし、こつこつと長編小説を書きはじめた。彼のこのようなしぐさは、自然である。それについては諸君にも心あたりがないとは言わせぬ。題を「鶴」とした。天才の誕生からその悲劇的な末路にいたるまでの・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・夜のまったく明けはなれたころ、二人は、帝国ホテルの前庭の蓮の池のほとりでお互いに顔をそむけながら力の抜けた握手を交してそそくさと別れ、その日のうちにシゲティは横浜からエムプレス・オブ・カナダ号に乗船してアメリカへむけて旅立ち、その翌る日、東・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・湯村のその大衆浴場の前庭には、かなり大きい石榴の木が在り、かっと赤い花が、満開であった。甲府には石榴の樹が非常に多い。 浴場は、つい最近新築されたものらしく、よごれが無く、純白のタイルが張られて明るく、日光が充満していて、清楚の感じであ・・・ 太宰治 「美少女」
・・・ H温泉旅館の前庭の丸い芝生の植え込みをめぐって電燈入りの地口行燈がともり、それを取り巻いて踊りの輪がめぐるのである。まだ宵のうちは帳場の蓄音機が人寄せの佐渡おけさを繰り返していると、ぽつぽつ付近の丘の上から別荘の人たちが見物に出かけて・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・その小路をはいるとまもなく、一つの前庭のついた小さな門をデストゥパーゴははいって行きました。わたくしはすっかり事情を探ってからデストゥパーゴに会おうか、警察へ行って、イーハトーヴォでさがしているデストゥパーゴだと云って押えてしまってもらおう・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・盆地で暑いせいだろう、前庭に丸太で組んだヤグラのようなすずみ台をこしらえて、西陽のさす方へコモをたらして、そこで女が縫いものをしたり、子供がひるねしたりしていた。 秋田、山形辺は、食糧危機がひどくなってから、主食買い出しの全国的基地とな・・・ 宮本百合子 「青田は果なし」
・・・弁当の包を片手に下げ、家のわきから左に入ると、男の子供が何人もかたまって遊んでいる小さい農家の前庭へ入った。その前庭から斜めに苔のついた石段が見えている。「この道をゆくと公会堂へでますか?」 よその言葉で見馴れぬ女にそうきかれて、子・・・ 宮本百合子 「琴平」
出典:青空文庫