ある婦人雑誌社の面会室。 主筆 でっぷり肥った四十前後の紳士。 堀川保吉 主筆の肥っているだけに痩せた上にも痩せて見える三十前後の、――ちょっと一口には形容出来ない。が、とにかく紳士と呼ぶのに躊躇することだけは事実・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・まず平均一段歩二十円前後のものでしょうか」 矢部は父のあまりの素朴さにユウモアでも感じたような態度で、にこやかな顔を見せながら、「そりゃ……しかしそれじゃ全く開墾費の金利にも廻りませんからなあ」 と言ったが、父は一気にせきこんで・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ はッと俯向き、両方へ、前後に肩を分けたけれども、ざらりと外套の袖の揺れたるのみ。 かっと逆上せて、堪らずぬっくり突立ったが、南無三物音が、とぎょッとした。 あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫として、ただ夫人のもの・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・八畳の奥は障子なしにすぐに居間であって、そこには、ちゃぶ台を据えて、そのそばに年の割合いにはあたまの禿げ過ぎた男と、でッぷり太った四十前後の女とが、酒をすませて、御飯を喰っている。禿げあたまは長火鉢の向うに坐って、旦那ぶっているのを見ると、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・随って会えば万更路人のように扱われもしなかったが、親しく口を利いた正味の時間は前後合して二、三十分ぐらいなもんだったろう。 が、沼南の「復たドウゾ御ユックリ」で巧みに撃退されたのは我々通り一遍の面識者ばかりじゃなかった。沼南と仕事を侶に・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ これをきくと、年子は、前後をわきまえず、そこに泣きくずれました。やがて、北国の夜はしんとしました。静かなのが、たちまちあらしに変わって、吹雪が雨戸を打つ音がしました。このとき、家の内では、こたつにあたりながら、年子は、先生のお母さんと・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・私もじつは前後の考えなしにここへ飛びこんだものの、明朝になればさっそく払いに困らねばならぬ。この地へ着くまでに身辺のものはすっかり売りつくして、今はもう袷とシャツと兵児帯と、真の着のみ着のまま。そして懐に残っているのは五厘銅貨ただ一つだ。明・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・寝床にはいるなり、前後不覚に寝てしまったんだ」 十日ほどたって、また行くと、しょげていた。「何だか元気がないね」「新券になってから、煙草が買えないんだ」「旧券のうちに、買いためて置くという手は考えたの」「考えたが、外出す・・・ 織田作之助 「鬼」
この月の二十日前後と産婆に言われている大きな腹して、背丈がずんぐりなので醤油樽か何かでも詰めこんでいるかのような恰好して、おせいは、下宿の子持の女中につれられて、三丁目附近へ産衣の小ぎれを買いに出て行った。――もう三月一日だった。二三・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・私はK君が海へ歩み入ったのはこの時刻の前後ではないかと思うのです。私がはじめてK君の後姿を、あの満月の夜に砂浜に見出したのもほぼ南中の時刻だったのですから。そしてもう一歩想像を進めるならば、月が少し西へ傾きはじめた頃と思います。もしそうとす・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
出典:青空文庫