・・・三十前後の顔はそれよりも更けたるが、鋭き眼の中に言われぬ愛敬のあるを、客擦れたる婢の一人は見つけ出して口々に友の弄りものとなりぬ。辰弥は生得馴るるに早く、咄嗟の間に気の置かれぬお方様となれり。過分の茶代に度を失いたる亭主は、急ぎ衣裳を改めて・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・口惜いやら情けないやら、前後夢中で川の岸まで走って、川原の草の中に打倒れてしまった。 足をばたばたやって大声を上げて泣いて、それで飽き足らず起上って其処らの石を拾い、四方八方に投げ付けていた。 こう暴れているうちにも自分は、彼奴何時・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・だが、まもなく頭がくらくらして前後が分らなくなった。そして眠るように、意識は失われてしまった。 彼の四肢は凍った。そして、やがて、身体全体が固く棒のように硬ばって動かなくなった。 ……雪が降った。 白い曠野に、散り散りに横た・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・唯これ一瞬の事で前後はなかった。 屋外は雨の音、ザアッ。 大噐晩成先生はこれだけの談を親しい友人に告げた。病気はすべて治った。が、再び学窓にその人は見われなかった。山間水涯に姓名を埋めて、平凡人となり了するつもりに料簡をつけ・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・私たちは宿屋の離れ座敷にあった古い本箱や机や箪笥なぞを荷車に載せ、相前後して今の住居に引き移って来たのである。 今の住所へは私も多くの望みをかけて移って来た。婆やを一人雇い入れることにしたのもその時だ。太郎はすでに中学の制服を着る年・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 女のほうは四十前後の痩せて小さい、身なりのきちんとしたひとでした。「こんな夜中にあがりまして」 とその女のひとは、やはり少しも笑わずにショールをはずして私にお辞儀をかえしました。 その時、矢庭に夫は、下駄を突っかけて外に飛・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
去年の夏信州沓掛駅に近い湯川の上流に沿うた谷あいの星野温泉に前後二回合わせて二週間ばかりを全く日常生活の煩いから免れて閑静に暮らしたのが、健康にも精神にも目に見えてよい効果があったように思われるので、ことしの夏も奮発して出・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・維新前後志士の苦心もいささか酬いられたといわなければならぬ。しからば新日本史はここに完結を告げたか。これから守成の歴史に移るのか。局面回復の要はないか。最早志士の必要はないか。飛んでもないことである。五十歳前、徳川三百年の封建社会をただ一簸・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・しかしこれら市中の溝渠は大かた大正十二年癸亥の震災前後、街衢の改造されるにつれて、あるいは埋められ、あるいは暗渠となって地中に隠され、旧観を存するものは殆どないようになった。 そのころ、わたくしはわが日誌にむかしあって後に埋められた市中・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・従ってこの篇の如きも作者の随意に事実を前後したり、場合を創造したり、性格を書き直したりしてかなり小説に近いものに改めてしもうた。主意はこんな事が面白いから書いて見ようというので、マロリーが面白いからマロリーを紹介しようというのではない。その・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫