・・・ 小さいカンの底に少し入っているまんま持って行ったら、手のひらへあけて前歯の間でかんだ。 ――これはありがたい! いい茶ですね、本物の青茶だ。 十一月四日。 ウラジヴォストクへいよいよ明日着きはつくが、何時だか正確なこと・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・波頭に 白く まろく、また果かなく少女時代の夢のように泡立つ泡沫は新たに甦る私の前歯とはならないか。打ちよせ 打ち返し轟く永遠の動きは鈍痲し易い人間の、脳細胞を作りなおすまいか。幸運のアフロディテ水沫から生れたア・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
・・・ 柱に頭をもたせかけ、私はくたびれてうっとりとし、ぼんやり幸福で、そのビスケットを一つ一つ、前歯の間で丹念に二つにわって行った。〔一九二四年三月〕 宮本百合子 「雲母片」
・・・ だってお祖母様――まだほんとうに覚めきらないんですもの こんな事を云ってかるい声で笑うのが聞えると仙二は誘われる様に微笑みながら藻の花の茎を前歯でかんで一つ処を見つめた目はしきりに間ばたきをして居た。 かなりの長い時間が立・・・ 宮本百合子 「グースベリーの熟れる頃」
・・・ 中川は暫く沈黙していたが、前歯の間に煙草を銜え、煙をよけるように眼を細めて両手でケイ紙を揃えながら、「これで帰れるかどうか知らんよ。だがマア君がこれでいいと云うならいいにして置こう。――僕にとっちゃどっちだって同じこった。そうだろ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・金ピカの棧敷や、赤ビロードで張った座席には、冷たい水で顔を洗い、さっぱり洗濯した白木綿のブラウズをきた女が、音楽をききながら、いい香のロシア・リンゴを前歯でかいては、たべている。 昔からのブルジョア文化を、プロレタリアートの利用のために・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・何かで、下駄の前歯が減るうちは、真の使い手になれぬと剣道の達人が自身を戒めている言葉をよんだ。 マヤコフスキーの靴の爪先にうたれた鋲は、彼の先へ! 先へ! 常に前進するソヴェト社会の更に最前線へ出ようと努力していた彼の一生を、実に正直に・・・ 宮本百合子 「ソヴェトの芝居」
・・・ 東北のこの地方の子供は前歯でその茎をかんで笛の様な音を出す事を知って居る。 茎の両端をひっぱってその中央を爪ではじいて軽いしまった響を出す事も子守達が日向に座ってよくして居る事だ。 山の多い湖の水の澄んだ村に生える草には姿もそ・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
・・・ 話そうと思った事をあらまし話して仕舞うと、次に話す事を考えでもする様に、体に合わせて何だか小さい様に見える頭を下げて、前歯で「きせる」を不味そうにカシカシかみながら、黙り込んで居る。 百姓などで、東京のものの様に次から次へと考えず・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・はつ子も、赧ら顔の中から目立って大きな三枚の上前歯を見せて笑ったが、「あなただって三十五六になって御覧なさると、変りますよ。自分の浮気を押えようとしているうちはまだ浮気は小さい。私なんぞは人間は浮気に出来ているものだと思ってますね」・・・ 宮本百合子 「帆」
出典:青空文庫