・・・のみならずしまいにはその襖へ、がりがり前足の爪をかけた。牧野は深夜のランプの光に、妙な苦笑を浮べながら、とうとうお蓮へ声をかけた。「おい、そこを開けてやれよ。」 が、彼女が襖を開けると、犬は存外ゆっくりと、二人の枕もとへはいって来た・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・しかし今前足を見ると、いや、――前足ばかりではありません。胸も、腹も、後足も、すらりと上品に延びた尻尾も、みんな鍋底のようにまっ黒なのです。まっ黒! まっ黒! 白は気でも違ったように、飛び上ったり、跳ね廻ったりしながら、一生懸命に吠え立てま・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・更紗の衣裳の下から見える前足の蹠がうす赤い。――この鼠が、これから雑劇の所謂楔子を演じようと云う役者なのである。 すると、見物の方では、子供だと、始から手を拍って、面白がるが、大人は、容易に感心したような顔を見せない。むしろ、冷然として・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・そして前足を動かして立とうとしたが、どうしても立てないで、そのままねころんでしまった。「かわいそうに、落ちて来た材木で腰っ骨でもやられたんだろう」「なにしろ一晩じゅうきゃんきゃんいって火のまわりを飛び歩いていたから、つかれもしたろう・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・ああ今頃は清軍の地雷火を犬が嗅ぎつけて前足で掘出しているわの、あれ、見さい、軍艦の帆柱へ鷹が留った、めでたいと、何とその戦に支那へ行っておいでなさるお方々の、親子でも奥様でも夢にも解らぬことを手に取るように知っていたという吹聴ではございませ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 訊きながら私は、今日はいつもの仔猫がいないことや、その前足がどうやらその猫のものらしいことを、閃光のように了解した。「わかっているじゃないの。これはミュルの前足よ」 彼女の答えは平然としていた。そして、この頃外国でこんなのが流・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・ 豚は、必死に前肢を柵にかけ、健二をめがけて、とびつくようにがつ/\して何か食物を求めた。小屋のわめきは二三丁さきの村にまで溢れて行って、人々の耳を打った。…… それから一週間ほど、それ等の汚れた豚は昼夜わめきつづけていたが、ついに・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ 犬は歯をむきだして、前足をのばすと、尻の方を高くあげて……源吉は身体をふるわしていたが、ハッとして立ちすくんでしまった。瞬間シーンとなった。誰の息づかいも聞えない。 土佐犬はウオッと叫ぶと飛びあがった。源吉は何やら叫ぶと手を振った・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・と肉屋は犬の両前足をにぎって、外のたたきの方へつれていきました。犬はそれからまた一日中、店先にいて、一生けんめいに番をしました。肉屋は夕方になると頭をなでて、きのうのとおりに、大きな肉のきれをやりました。ところが犬は、やはりそれを食べないで・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・右の前足が少し短く、それに前足はO型でガニだから、足音にも寂しい癖があるのだ。よくこんな真夜中に、お庭を歩きまわっているけれど、何をしているのかしら。カアは、可哀想。けさは、意地悪してやったけれど、あすは、かわいがってあげます。 私は悲・・・ 太宰治 「女生徒」
出典:青空文庫