・・・ 丁度巌本善治の明治女学校が創立された時代で、教会の奥に隠れたキリスト教婦人が街頭に出でて活動し初めた。九十の老齢で今なお病を養いつつ女の頭領として仰がれる矢島楫子刀自を初め今は疾くに鬼籍に入った木村鐙子夫人や中島湘烟夫人は皆当時に崛起・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ どうせ朝まで客は拾えないし、それにその日雨天のため花火は揚らなかったが廓の創立記念日のことであるし、なんぞええことやるやろと登楼を薦めた。むろん断ったが、十八にもなってと嘲られたのがぐっと胸に来て登楼った。長崎県五島の親元へ出す妓の手・・・ 織田作之助 「雨」
・・・を戦わした。しかし、明治三十六年十月八日、露国の満洲撤兵第三期となった時、戦争はもはや到底避けられないことが明かになるや、黒岩涙香は主戦論に一変した。幸徳、堺は「万朝報」を退社し、「平民社」を創立した。そして、十一月十五日「平民新聞」第一号・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・』――『チャプリン氏を総裁に創立された馬鹿笑いクラブ。左記の三十種の事物について語れば、即時除名のこと。四十歳。五十歳。六十歳。白髪。老妻。借銭。仕事。子息令嬢の思想。満洲国。その他。』――あとの二つは、講談社の本の広告です。近日、短篇集お・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・大正七年三菱研究所の創立に際してその所長となったが、その設立については末広君が主要な中心人物の一人として活動した事は明白な事実である。大正十二年関東大震災以前から既に地震学に興味をもっていたが、大震災の惨害を体験した動機から、地震に対する特・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・其ノ後慶応年間ニ至ツテ、松葉屋某ナル者魁主トナリ、遂ニ旧府ノ許可ヲ禀クルヤ、同志厠与ニ助ケテ以テ稍ク二三ノ楼ヲ営ム。其ノ創立ノ妓楼トイフモノハ則曰ク松葉屋、曰ク大黒屋、曰ク小川屋曰ク吉田屋曰ク金邑屋此ノ他局店ハ曰ク三福長屋、曰ク恵比寿長屋等・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ で、中学の存在によって繁栄を引き止めようとしたが、困ったことには中学がその地方十里以内の地域に一度に七つも創立された。 だいたい今まで中学が少な過ぎたために、県で立てたのが二つ、その当時、衆議院議員選挙の猛烈な競争があったが、一人・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ 我が慶応義塾の教育法は、学生諸氏もすでに知る如く、創立のその時より実学を勉め、西洋文明の学問を主として、その真理原則を重んずることはなはだしく、この点においては一毫の猶予を仮さず、無理無則、これ我が敵なりとて、あたかも天下の公衆を相手・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾学生諸氏に告ぐ」
・・・よって吾が党の士、相ともに謀りて、私にかの共立学校の制にならい、一小区の学舎を設け、これを創立の年号に取りてかりに慶応義塾と名づく。 ことし四月某日、土木、功を竣め、新たに舎の規律勧戒を立てり。こいねがわくは吾が党の士、千里笈を担うてこ・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾の記」
・・・ 一方では、前年ヴェノスアイレスの国際ペンクラブ大会に日本代表として出席した島崎藤村が、大会の反ファッシズムに高まった雰囲気から、彼独特の用心ぶかさで日本の立場を守ってかえって来て、日本ペンクラブの創立に着手しはじめている時であった。また・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十巻)」
出典:青空文庫