・・・ 保吉はお嬢さんの姿を見ても、恋愛小説に書いてあるような動悸などの高ぶった覚えはない。ただやはり顔馴染みの鎮守府司令長官や売店の猫を見た時の通り、「いるな」と考えるばかりである。しかしとにかく顔馴染みに対する親しみだけは抱いていた。だか・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まろうとした。けれども誰かに押されるように立ち止まることさえ容易ではなかった。…… 三十分ばかりたった後、僕は僕の二階に仰向けになり、じっと目をつぶったまま、烈しい頭痛をこらえていた。すると・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・が、その途中も動悸はするし、膝頭の傷はずきずき痛むし、おまけに今の騒動があった後ですから、いつ何時この車もひっくり返りかねないような、縁起の悪い不安もあるし、ほとんど生きている空はなかったそうです。殊に車が両国橋へさしかかった時、国技館の天・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・波が高まると妹の姿が見えなくなったその時の事を思うと、今でも私の胸は動悸がして、空恐ろしい気持ちになります。 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ 十四 強盗に出逢ったような、居もせぬ奴を呼んだのも、我ながら、それにさへ、動悸は一倍高うなる。 女房は連りに心急いて、納戸に並んだ台所口に片膝つきつつ、飯櫃を引寄せて、及腰に手桶から水を結び、効々しゅう、嬰・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・……動悸に波を打たし、ぐたりと手をつきそうになった時は、二河白道のそれではないが――石段は幻に白く浮いた、卍の馬の、片鐙をはずして倒に落ちそうにさえ思われた。 いや、どうもちっと大袈裟だ。信也氏が作者に話したのを直接に聞いた時は、そんな・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ずっと寄れ、さあこの身体につかまってその動悸を鎮めるが可い。放すな。」と爽かにいった言につれ、声につれ、お米は震いつくばかり、人目に消えよと取縋った。「婆さん、明を。」 飛上るようにして、やがてお幾が捧げ出した灯の影に、と見れば、予・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・たださえ破れようとする心臓に、動悸は、破障子の煽るようで、震える手に飲む水の、水より前に無数の蚊が、目、口、鼻へ飛込んだのであります。 その時の苦しさ。――今も。 三 白い梢の青い火は、また中空の渦を映し出す・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・また動悸を高くします。」「ほんとに串戯は止して新さん、きづかうほどのことはないのでしょうね。」「いいえ、わけやないんだそうだけれど、転地しなけりゃ不可ッていうんです。何、症が知れてるの。転地さえすりゃ何でもないって。」「そんなら・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・自分は胸に動悸するまで、この光景に深く感を引いた。 この日は自分は一日家におった。三児は遊びに飽きると時々自分の書見の室に襲うてくる。 三人が菓子をもらいに来る、お児がいちばん無遠慮にやってくる。「おんちゃん、おんちゃん、かちあ・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
出典:青空文庫