・・・店にはすぐに数えつくされるくらいの品物――鍬や鎌、鋏や庖丁などが板の間の上に並べてあった。私の求める鋏はただ二つ、長いのと短いのと鴨居からつるしてあった。 ちょうど夕飯をすまして膳の前で楊枝と団扇とを使っていた鍛冶屋の主人は、袖無しの襦・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・台所では皿鉢のふれ合う音、庖丁の音、料理人や下女らの無作法な話し声などで一通り騒がしい上に、ねこ、犬、それから雨に降り込められて土間へ集まっている鶏までがいっそうのにぎやかさを添える。奥の間、表座敷、玄間とも言わず、いっぱいの人で、それが一・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・老母は錆びた庖丁を砥石にかけて、ごしごしやっていた。「これおいしいですよ。私大事に取っておいたの」お絹は言っていた。「その庖丁じゃおぼつかないな」道太はちょっと板前の心得のありそうな老母の手つきを、からかい半分に眺めていた。「庖・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 研屋は今でも折々天秤棒を肩にして、「鋏、庖丁、剃刀研ぎ」と呼わりながら門巷を過るが鋳掛屋の声はいつからとも知らず耳遠くなってしまった。是れ現代の家庭に在っては台所で使う鍋釜のたぐいも悉く廉価なる粗製品となり、破損すれば直様古きを棄てて・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・それからその御寺の傍に小刀や庖丁を売る店があって記念のためちょっとした刃物をそこで求めたようにも覚えています。それから海岸へ行ったら大きな料理店があったようにも記憶しています。その料理店の名はたしか一力とか云いました。すべてがぼんやりして思・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・それから下女は余のために庖丁を取て柿をむいでくれる様子である。余は柿も食いたいのであるがしかし暫しの間は柿をむいでいる女のややうつむいている顔にほれぼれと見とれていた。この女は年は十六、七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立まで申分のないように・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・かえって来て、釜、庖丁の類を私の前に並べ「マア、おっかないみたいなもんですよ。このお釜は、きのうの相場なんですって」といった。鉄類は一日一日、朝と夜とで相場が高くなって来ている。特別勉強してこの釜だけはきのうの相場で売って上げるというわけな・・・ 宮本百合子 「打あけ話」
・・・男を観察し、女中の留守には自分の洗ったお茶碗を傍で拭き、得意の庖丁磨きをすることを恒例とする良人、労農派の総帥山川均氏をはじめ、親類の男の誰彼が特殊な事情でそれぞれ女のする家のことをもよくするということで、すべての男性というものを気よくその・・・ 宮本百合子 「昨今の話題を」
・・・立って見ていると表面の黒いかたまりにさっと庖丁を渡*、二つにひろげてぽんと、何と云うかどっさり魚を並べてある斜かいの台の上に放り出した。「何の肉です?」 誰かがはっきり訊いた。 見えない人の声が、威めしい声で、「烏の肉だ」・・・ 宮本百合子 「静かな日曜」
・・・ しばらくだまって居たっけがやがて頭をあげて、小さい庖丁をつかって居る祖母の手許を見ながら云い出した。「御隠居様、 御年貢の分だけは、はあどうにか斯うにか取りましただハイ。 それは確なことでやす。 けんど貧亡(者は、・・・ 宮本百合子 「農村」
出典:青空文庫