・・・ 十一 妾宅の新年は寂しかった。門には竹が立てられたり、座敷には蓬莱が飾られたりしても、お蓮は独り長火鉢の前に、屈托らしい頬杖をついては、障子の日影が薄くなるのに、懶い眼ばかり注いでいた。 暮に犬に死なれて・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 十一「どうぞこれへ。」 椅子を差置かれた池の汀の四阿は、瑪瑙の柱、水晶の廂であろう、ひたと席に着く、四辺は昼よりも明かった。 その時打向うた卓子の上へ、女の童は、密と件の将棋盤を据えて、そのまま、陽炎の・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 十一 しばらくして菊枝が細い声、「もし」「や、産声を挙げたわ、さあ、安産、安産。」と嬉しそうに乗出して膝を叩く。しばらくして、「ここはどこでございますえ。」とほろりと泣く。 七兵衛は笑傾け、・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 十一「在り来りの皮は、麁末な麦の香のする田舎饅頭なんですが、その餡の工合がまた格別、何とも申されません旨さ加減、それに幾日置きましても干からびず、味は変りませんのが評判で、売れますこと売れますこと。 近在は・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・――…… 十一 翌日の午後の公園は、炎天の下に雲よりは早く黒くなって人が湧いた。煉瓦を羽蟻で包んだような凄じい群集である。 かりに、鎌倉殿としておこう。この……県に成上の豪族、色好みの男爵で、面構も風采も・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 十一 さてその時お雪が話しましたのでは、何でもその孤家の不思議な女が、件の嫉妬で死んだ怨霊の胸を発いて抜取ったという肋骨を持って前申しまする通り、釘だの縄だのに、呪われて、動くこともなりませんで、病み衰えており・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・これは十一日の晩の、しかも月の幽かな夜ふけである。おとよはわが家の裏庭の倉の庇に洗濯をやっている。 こんな夜ふけになぜ洗濯をするかというに、風呂の流し水は何かのわけで、洗い物がよく落ちる、それに新たに湯を沸かす手数と、薪の倹約とができる・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・不文、意をつくしませぬが、御判読下さいまし。十一月二十八日深夜二時。十五歳八歳当歳の寝息を左右に聞きながら蒲団の中、腹這いのままの無礼を謝しつつ。田所美徳。太宰治様。」「拝啓。歴史文学所載の貴文愉快に拝読いたしました。上田など小生一高時・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ 十一 赤いカンナが色々咲いている。文字で書けば朱とか紅とかいうだけであるが、種類によってその赤い色がことごとくちがう。よく見ると花ばかりでなくそれぞれの葉の色も少しずつ違う。それが普通にはみんな赤いカンナと・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
・・・ 十一 毎週一回新宿駅で東北沢行きの往復切符を買う。すると、改札口で切符切りの駅員がきっと特別念入りにその切符を検査するようである。しかし片道切符のときはろくに注意しないでさっさと鋏を入れるように見える。どういう・・・ 寺田寅彦 「破片」
出典:青空文庫