・・・ オルガンティノは一瞬間、降魔の十字を切ろうとした。実際その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた枝垂桜が、それほど無気味に見えたのだった。無気味に、――と云うよりもむしろこの桜が、何故か彼を不安にする、日本そのもののように見えたのだった。が・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・のみならず頸のまわりへ懸けた十字架形の瓔珞も、金と青貝とを象嵌した、極めて精巧な細工らしい。その上顔は美しい牙彫で、しかも唇には珊瑚のような一点の朱まで加えてある。…… 私は黙って腕を組んだまま、しばらくはこの黒衣聖母の美しい顔を眺めて・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・すると果して吉助は、朝夕一度ずつ、額に十字を劃して、祈祷を捧げる事を発見した。彼等はすぐにその旨を三郎治に訴えた。三郎治も後難を恐れたと見えて、即座に彼を浦上村の代官所へ引渡した。 彼は捕手の役人に囲まれて、長崎の牢屋へ送られた時も、さ・・・ 芥川竜之介 「じゅりあの・吉助」
・・・すると午後四時半ごろ右の狼は十字町に現れ、一匹の黒犬と噛み合いを初めた。黒犬は悪戦頗る努め、ついに敵を噛み伏せるに至った。そこへ警戒中の巡査も駈けつけ、直ちに狼を銃殺した。この狼はルプス・ジガンティクスと称し、最も兇猛な種属であると云う。な・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・それから二人とも十字を切り、はるかに洞穴を礼拝する。 3 この大きい樟の木の梢。尻っ尾の長い猿が一匹、或枝の上に坐ったまま、じっと遠い海を見守っている。海の上には帆前船が一艘。帆前船はこちらへ進んで来るらしい。 ・・・ 芥川竜之介 「誘惑」
・・・まぶしい光に明滅して十字架にかかった基督の姿が厳かに見やられた。クララは有頂天になった。全身はかつて覚えのない苦しい快い感覚に木の葉の如くおののいた。喉も裂け破れる一声に、全身にはり満ちた力を搾り切ろうとするような瞬間が来た。その瞬間にクラ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ とある十字街へ懸った時、横からひょこりと出て、斜に曲り角へ切れて行く、昨夜の坊主に逢った。同じ裸に、赤合羽を着たが、こればかりは風をも踏固めて通るように確とした足取であった。 が、赤旗を捲いて、袖へ抱くようにして、いささか逡巡の体・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・総体の様子がどうも薄気味の悪いところで、私はこの坂に来て、武の家の前を通るたびにすぐ水滸伝の麻痺薬を思い出し、武松がやられました十字坡などを想い出したくらいです。 それですが、武から妙なことを言われて大いに不思議に思っている上に武の家に・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ ユーブカをつけた女は、頸を垂れ、急に改った、つつましやかな、悲しげな表情を浮べて十字を切った。「あいつは、ええ若いものだったんだ!……可憐そうなこった!」 老人は、十字を切って、やわい階段をおりて行った。おりて行きながら彼は口・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・ 龍介は賑やかな十字街を横切った。その時前からくる二人をフト見た。それは最近細君を貰った銀行の同僚だった。彼は二人から遠ざかるように少し斜めに歩いた。相手は彼を知らないで通り過ぎた。ちょっと行ってから彼は振りかえってみた。二人は肩を並べ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
出典:青空文庫