・・・そこで、彼は、わざと重々しい調子で、卑下の辞を述べながら、巧にその方向を転換しようとした。「手前たちの忠義をお褒め下さるのは難有いが、手前一人の量見では、お恥しい方が先に立ちます。」 こう云って、一座を眺めながら、「何故かと申し・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・仁右衛門は卑下して出た笠井にちょっと興味を感じて胸倉から手を離して、閾に腰をすえた。暗闇の中でも、笠井が眼をきょとんとさせて火傷の方の半面を平手で撫でまわしているのが想像された。そしてやがて腰を下して、今までの慌てかたにも似ず悠々と煙草入を・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・苦心談、立志談は、往々にして、その反対の意味の、自己吹聴と、陰性の自讃、卑下高慢になるのに気附いたのである。談中――主なるものは、茸で、渠が番組の茸を遁げて、比羅の、蛸のとあのくたらを説いたのでも、ほぼ不断の態度が知れよう。 但し、以下・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・何の卑下する処があります。私はそれが可羨しい。狗の子だか、猫の子だか、掃溜ぐらいの小屋はあっても、縁の下なら宿なし同然。このお邸へ来るまでは、私は、あれ、あの、菊の咲く、垣根さえ憚って、この撫子と一所に倒れて、草の露に寝たんですよ。りく・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・従来片商売として扱われ、作者自身さえ戯作として卑下していた小説戯曲などが文明に貢献する大なる精神的事業である事を社会に認めしめたのは全く坪内君の功労である。 坪内君はイツでも新らしい道を開く。劇の如きも今日でこそ猫も杓子も書く、生れて以・・・ 内田魯庵 「明治の文学の開拓者」
・・・き物まいらせんとてかの君手さげの内を探りたまいしが、こはいかに宝丹を入れ置きぬと覚えしにと当惑のさまを、貴嬢は見たまいて、いなさまでに候わずとしいて取り繕わんとなしたもうがおかしく、その時もしわが顔に卑下の色の動きたりせば恕したまえ。 ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ これが河田翁持ち前の一つで、人に対すると言いたいことも言えなくなり、つまらんところに自分を卑下してしまうのである。「あなたがわたしの家へ来てからもう五年になるなア」と石井翁は以前の事を思い出した。「そうなりますかね、早いものだ・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・彼女は、自分の家の地位が低いために、そういう金持の間に伍することが出来ないように、自から、卑下していた。そして、また、実際に、穢いドン百姓の嚊と見下げられていた。 やがて、汽車が着くと、庄屋や、醤油屋や、呉服屋などの坊っちゃん達が降りて・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・ あまり卑下していても、いけないのである。それでは、と膝を崩して、やや顔を上げ、少し笑って見せると、こんどは、横着な奴だと言って叱られる。これはならぬと、あわてて膝を固くして、うなだれると、意気地が無いと言って叱られる。どんなにしても、・・・ 太宰治 「一燈」
・・・あの人を怖れることは無いんだ。卑下することは無いんだ。私はあの人と同じ年だ。同じ、すぐれた若いものだ。ああ、小鳥の声が、うるさい。耳についてうるさい。どうして、こんなに小鳥が騒ぎまわっているのだろう。ピイチクピイチク、何を騒いでいるのでしょ・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
出典:青空文庫