・・・その日の暑さも記憶の中に際立って残っているものである。卒倒しそうになると氷屋へはいって休み休みしたので、とうとう一日に十一杯の氷水をのんだ。そうして下宿へ帰ると井戸端へ行って水ごりをとった。それでも、あるいはそのおかげで、からだに別条はなか・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・それから帰宿の途中、地下鉄の昇降器の中で卒倒したが、その時はすぐに回復した。 一九一九年五月十八日の日曜、例の通り教会へ行ったが気分が悪いと云って中途で帰宅し、午後中ソファで寝ていた。翌朝は臥床を離れる元気がなかった。五月二十七日と二十・・・ 寺田寅彦 「レーリー卿(Lord Rayleigh)」
・・・自分は閑静な車輛のなかで、先年英国のエドワード帝を葬った時、五千人の卒倒者を出した事などを思い出したりした。 汽車を下りて車に乗った時から、秋の感じはなお強くなった。幌の間から見ると車の前にある山が青く濡れ切っている。その青いなかの切通・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
・・・何でも去年とか一度卒倒して、しばらく田端辺で休養していたので、今じゃ少しは好いようだとかいう話しであった。「それじゃ、まだ来客謝絶だろう」と冗談半分に聞いて見たら、「まあ……」とか何とか云う返事であった。「それじゃ、行くのはまあ見合せよう」・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・僕はそれを見て卒倒し、二日間も発熱して臥てしまった。幼年時代はすべての世界が恐ろしく、魑魅妖怪に満たされて居た。 青年時代になってからも、色々恐ろしい幻覚に悩まされた。特に強迫観念が烈しかった。門を出る時、いつも左の足からでないと踏み出・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・ 狐は卒倒しそうになって、頭に手をあげて答えました。 「へい、お申し訳もございません。どうかお赦しをねがいます」 ホモイはうれしさにわくわくしました。 「特別に許してやろう。お前を少尉にする。よく働いてくれ」 狐が悦んで・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・あんまり話がひどかった為に婦人の中で四五人卒倒者があり他の婦人たちも大抵歯を食いしばって泣いたり耳をふさいで縮まったりしていたのです。式場は俄に大騒ぎになりシカゴの畜産技師も祭壇の上で困って立っていました。正気を失った人たちはみんなの手で私・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・やっと自分が巴里へ行ける番になって、ソルボンヌ大学の理科の貧しい学生となってからのマリヤが、エレヴェータアなどありっこない七階のてっぺんのひどい屋根裏部屋で、時には疲労と空腹とから卒倒するような経験をしながら、物理学と数学との学士号をとる迄・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人の命の焔」
・・・「仮装平時閲兵のために、暑気あたりに苦しんでそこに卒倒した不幸な若い婦人をそのまま放っておくほど、大英国の軍規はきびしいのだろうか」 すっきりとした初夏の服装で、大きめのハンド・バッグを左腕にかけ、婦人兵士の最後の列の閲兵を終ろうとして・・・ 宮本百合子 「権力の悲劇」
・・・男の方からやって来て、抑圧したのだそうだが、「ふふふふ、その時ね、一人の女監守があわをくって、卒倒しちまったりしたんですよ」 度々の獄中生活で、その女は二十八という年よりずっと干からびた体であった。骨だった肩にちっとも似合わない白っ・・・ 宮本百合子 「刻々」
出典:青空文庫