・・・父が書斎の丸窓外に、八手の葉は墨より黒く、玉の様な其の花は蒼白く輝き、南天の実のまだ青い手水鉢のほとりに藪鶯の笹啼が絶間なく聞えて屋根、軒、窓、庇、庭一面に雀の囀りはかしましい程である。 私は初冬の庭をば、悲しいとも、淋しいとも思わなか・・・ 永井荷風 「狐」
・・・母家から別れたその小さな低い鱗葺の屋根といい、竹格子の窓といい、入口の杉戸といい、殊に手を洗う縁先の水鉢、柄杓、その傍には極って葉蘭や石蕗などを下草にして、南天や紅梅の如き庭木が目隠しの柴垣を後にして立っている有様、春の朝には鶯がこの手水鉢・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・「あの方は、私、級中で一番嫌いだわ、此の間もね、お裁縫室の傍にね、ホラ南天の木があるでしょう、彼処で種々お話をしていた時、私が何心なく、芳子さんにね、貴女は何故此の学校へお入りに成ったのって伺ったのよ。そうしたらね、あの方ったら」 ・・・ 宮本百合子 「いとこ同志」
午後から日がさし、積った白雪と、常磐木、鮮やかな南天の紅い実が美くしく見える。 机に向っていると、隣の部屋から、チクチク、チチと小鳥の囀りが聞えて来る。二三日雪空が続き、真南をねじれて建った家には、余り充分日光が射さな・・・ 宮本百合子 「小鳥」
・・・ ○南画的な勁い樹木多し、古、榧、杉◎南天、要、葉の幅の広い方の槇、サンゴ樹それから年が経て樹の幹にある趣の出来てた やぶこうじの背高いの南天特に美し。 ○川ふちの東屋、落ちて居た椎の実、「椎の実 かやの実たべたので」 かや・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
・・・ 八畳の座敷で、障子の硝子越しに、南天のある小庭と、先にずっと雪に覆われた下谷辺の屋根屋根の眺望があった。 藍子は、女が若しか廃業でもしたい気かも知れないと思って来たのであったが、その推察ははずれていたのを知った。「あんたの気持・・・ 宮本百合子 「帆」
・・・ 古草履や鑵、瀬戸物の破片が一杯散らばった庭には、それでも思い設けず、松や古梅、八つ手、南天などが、相当の注意を以て植えられて居る。庭石が、コンベンショナルな日本の庭らしい趣で据えられ、手洗台の石の下には、白と黒とぶちの大きな猫が、斜な・・・ 宮本百合子 「又、家」
・・・寝る前に手水に行った時には綿をちぎったような、大きい雪が盛んに降って、手水鉢の向うの南天と竹柏の木とにだいぶ積って、竹柏の木の方は飲み過ぎたお客のように、よろけて倒れそうになっていた。お金はまだ降っているかしらと思って、耳を澄まして聞いてい・・・ 森鴎外 「心中」
・・・ 勘次は裏庭から店の間へ来ると、南天の蔭に背中を見せて帰って行く秋三の姿が眼についた。「今来たのは秋公か?」「お前、秋が安次を連れて来てくれたんやがな。」 安次は急に庭から立ち上ると、「秋公、こら、秋公。」と大声で呼び出・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫