・・・「僕はそんなに単純じゃない。詩人、画家、批評家、新聞記者、……まだある。息子、兄、独身者、愛蘭土人、……それから気質上のロマン主義者、人生観上の現実主義者、政治上の共産主義者……」 僕等はいつか笑いながら、椅子を押しのけて立ち上って・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得る・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・そしてそれから処刑までの出来事は極めて単純である。可笑しい程単純である。 獄丁二人が丁寧に罪人の左右の臂を把って、椅子の所へ連れて来る。罪人はおとなしく椅子に腰を掛ける。居ずまいを直す。そして何事とも分からぬらしく、あたりを見廻す。この・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 小娘はまた魚を鉤から脱して、地に投げる。今度は貴夫人の傍へ投げる。 魚は死ぬる。 ぴんと跳ね上がって、ばたりと落ちて死ぬる。 単純な、平穏な死である。踊ることをも忘れて、ついと行ってしまうのである。「おやまあ」と貴夫人・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・朝の天気はまんまるな天際の四方に白雲を静めて、洞のごとき蒼空はあたかも予ら四人を中心としてこの磯辺をおおうている。単純な景色といわば、九十九里の浜くらい単純な景色はなかろう。山も見えず川も見えずもちろん磯には石ころもない。ただただ大地を両断・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・を顧みるの念が少ないならば、早く禍の免れ難きを覚悟したとき、自ら振作するの勇気は、もって笑いつつ天災地変に臨むことができると思うものの、絶つに絶たれない係累が多くて見ると、どう考えても事に対する処決は単純を許さない。思慮分別の意識からそうな・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・僕の胸があまり荒んでいて、――僕自身もあんまり疲れているので、――単純な精神上のまよわしや、たわいもない言語上のよろこばせやで満足が出来ない。――同情などは薬にしたくも根が絶えてしまった。 僕は妻のヒステリをもって菊子の毒眼を買い、両方・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・そういうような単純な目的のために唄われるものであるなら、その目的を達すればそれでいいのである。在来のこの種の歌の中で、身の不運を嘆いたり、生のたよりなさを訴たりする者があっても、それは単純なリリシズムの繰り返しにしか過ぎなかった。そしてそれ・・・ 小川未明 「詩の精神は移動す」
ガンヂイーのカッダール主義は、単なる生活の単純化でないであろう。それには、多分に政治的の意味が含まれているからだ。しかし、それに、私達は、教えられるところがないだろうか。 私の子供時分には、まだ、周囲に封建時代の風習も、生活様式も・・・ 小川未明 「単純化は唯一の武器だ」
・・・惚れているという単純な言葉がなかなか思いつかなかった。嫌悪しているものに逆に引きつけられるという自虐のからくりには気がつかなかった。ある朝、妓が林檎をむいてくれるのを見て、胸が温った。無器用な彼は林檎一つむけず、そんな妓の姿に涙が出るほど感・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫