・・・波の上に飛びかう鶺鴒は忽ち来り忽ち去る。秋風に吹きなやまされて力なく水にすれつあがりつ胡蝶のひらひらと舞い出でたる箱根のいただきとも知らずてやいと心づよし。遥かの空に白雲とのみ見つるが上に兀然として現われ出でたる富士ここからもなお三千仞はあ・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・そして私はその三年目、仕事の都合でとうとうモリーオの市を去るようになり、わたくしはそれから大学の副手にもなりましたし農事試験場の技手もしました。そして昨日この友だちのない、にぎやかながら荒さんだトキーオの市のはげしい輪転機の音のとなりの室で・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・ トーマス・マン夫妻は、おりからスイスに講演旅行に出かけていてエリカとクラウスとは、もう一刻も安住すべきところでなくなったドイツを去る決心をなし、スイスの両親にそちらにとどまるようにと電報して、ただちにスイスのアローザへおもむいた。こう・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・犬死と知って切腹するか、浪人して熊本を去るかのほか、しかたがあるまい。だがおれはおれだ。よいわ。武士は妾とは違う。主の気に入らぬからといって、立場がなくなるはずはない。こう思って一日一日と例のごとくに勤めていた。 そのうちに五月六日が来・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 医師が去ると、彼は電燈を消して燭台に火を点けた。 ――さて、何の話をしたものであろう。 彼は妻の影が、ヘリオトロオプの花の上で、蝋燭の光りのままに細かく揺れているのを眺めていた。すると、ふと、彼は初めて妻を見たときの、あの彼女・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・今の私はなお自欺と自己弁護との痕跡を、十分消し去ることができない。自己弁護はともすれば浮誇にさえも流れる。それゆえ私は苦しむ。真実を愛するがゆえに私は苦しむ。六 私は自分に聞く。――お前にどんな天分があるか。お前の自信が虫の・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫