・・・大空をわたる雲の一片となっているか、谷河の水の一滴となっているか、太洋の泡の一つとなっているか、又は思いがけない人の涙堂に貯えられているか、それは知らない。然しその熱い涙はともかくもお前たちだけの尊い所有物なのだ。 自動車のいる所に来る・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・花田 ドモ又はどうだ。戸部 できたものはみんないやだ。けれども人のに比べれば、俺のほうがいいと俺は思っている。俺はそれを知っている。花田 青島の心持ちはもう聞いた。青島も俺も、自分の仕事を後世に残して恥ずかしいとは思わない・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・欧洲文明に於けるスカンディナヴィヤのような、又は北米の文明に於けるニュー・イングランドのような役目を果たすことが出来ていたかも知れない。然しそれは歴代の為政者の中央政府に阿附するような施設によって全く踏みにじられてしまった。而して現在の北海・・・ 有島武郎 「北海道に就いての印象」
・・・等二三の重なる雑誌でさえが其執筆者又は寄書家に相当の報酬を支払うだけの経済的余裕は無かったので、当時の雑誌の存在は実は操觚者の道楽であって、ビジネスとして立派に成立していたのでは無かった。従って操觚者が報酬を受くる場合は一冊の著述をする外な・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ 私は多くの不良少年の事実に就いては知らないが、自分の家に来た下女、又は知っている人間の例に就いて考えて見れば、母親の所謂しっかりした家の子供は恐れというものを感ずる、悪いという事を知る。しかし、母親が放縦であり、無自覚である家の子供は・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・ 例えば海の水を描くとか、或は真夏の山を描くとか、又は森の深緑に光線の直射しているところを描くとか、それ等は真実動いているように見える。けれども、それに依って刹那の前後の気持は現われても、それ以上時間的に現わすと云うことは、どうも絵画の・・・ 小川未明 「動く絵と新しき夢幻」
・・・この美くしい事、正しい事に対する感激、又は自己犠牲の考こそほんとうの人間を作るに必要なものである。これを子供の心から呼び出して成長させることが一番大切な事である。そしてそれは形の上の教育では到底不可能なことである。 概念的な教育、束縛的・・・ 小川未明 「人間性の深奥に立って」
・・・かね又という牛めし屋へ「芋ぬき」というシュチューを食べに行く。かね又は新世界にも千日前にも松島にも福島にもあったが、全部行きました。が、こんな食気よりも私をひきつけたものはやはり夜店の灯です。あのアセチリン瓦斯の匂いと青い灯。プロマイド屋の・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・その規約によると、誠心誠意主人のために働いた者には、解雇又は退隠の際、或は不時の不幸、特に必要な場合に限り元利金を返還するが、若し不正、不穏の行為其他により解雇する時には、返還せずというような箇条があった。たいてい、どこにでも主人が勝手にそ・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・ 百姓は、稲を刈り、麦を蒔きながら、自動車をとばし、又は、ぞろ/\群り歩いて行く客を見ている。儲けるのは大阪商船と、宿屋や小商人だけである。寒霞渓がいゝとか「天下の名勝」だとか云って宣伝するのも、主に儲けをする彼等である。百姓には、寒霞・・・ 黒島伝治 「小豆島」
出典:青空文庫