・・・さしたての潮が澄んでいるから差し覗くとよく分かった――幼児の拳ほどで、ふわふわと泡を束ねた形。取り留めのなさは、ちぎれ雲が大空から影を落としたか、と視められ、ぬぺりとして、ふうわり軽い。全体が薄樺で、黄色い斑がむらむらして、流れのままに出た・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・(ちょっと順序を附 宗吉は学資もなしに、無鉄砲に国を出て、行処のなさに、その頃、ある一団の、取留めのない不体裁なその日ぐらしの人たちの世話になって、辛うじて雨露を凌いでいた。 その人たちというのは、主に懶惰、放蕩のため、世に見棄・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・と飛退いたり。取留めのないすさびも、この女の人気なれば、話せば逸話に伝えられよう。 低い山かと見た、樹立の繁った高い公園の下へ出ると、坂の上り口に社があった。 宮も大きく、境内も広かった。が、砂浜に鳥居を立てたようで、拝殿の裏崕には・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ところが、天女のようだとも言えば、女神の船玉様の姿だとも言いますし、いや、ぴらぴらの簪して、翡翠の耳飾を飾った支那の夫人の姿だとも言って、現に見たものがそこにある筈のものを、確と取留めたことはないのでございますが、手前が申すまでもありません・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・今もって、取留めた、悉しい事は知らないんだが、それも、もう三十年。 ……お米さん、私は、おなじその年の八月――ここいらはまだ、月おくれだね、盂蘭盆が過ぎてから、いつも大好きな赤蜻蛉の飛ぶ時分、道があいて、東京へ立てたんだが。―― ―・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・が、取留めた格別な咄もそれほどの用事もないのにどうしてこう頻繁に来るのか実は解らなかったが、一と月ばかり経ってから漸と用事が解った。その頃村山龍平の『国会新聞』てのがあって、幸田露伴と石橋忍月とが文芸部を担任していたが、仔細あって忍月が退社・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ が、風説は雲を攫むように漠然として取留めがなく、真相は終に永久に葬むられてしまったが、歓楽極まって哀傷生ず、この風説が欧化主義に対する危惧と反感とを長じて終に伊井内閣を危うするの蟻穴となった。二相はあたかも福原の栄華に驕る平家の如くに・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・誰が見ても助かるまいと言った学士が危く一命を取留めた頃には、今度は正木大尉が倒れた。大尉は奥さんの手に子供衆を遺し、仕掛けた塾の仕事も半途で亡くなった。大尉の亡骸は士族地に葬られた。子供衆に遺して行った多くの和漢の書籍は、親戚の立会の上で、・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・私の申しわけ、わたくしの取留めの無い挙動の申しわけはこの一字に在るのでございます。 ピエエルさん。わたくしはただいま白状いたします。わたくしはもう十六年前にあなたに恋をいたしていました。あなたが高等学校をお出になったばっかりの世慣れない・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・とにかく取留めのないものであった。それが病人を見る時ばかりではない。何をしていても同じ事で、これをしてしまって、片付けて置いて、それからというような考をしている。それからどうするのだか分からない。 そして花房はその分からない或物が何物だ・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
出典:青空文庫