・・・ 霊廟の土の瘧を落し、秘符の威徳の鬼を追うよう、たちどころに坊主の虫歯を癒したはさることながら、路々も悪臭さの消えないばかりか、口中の臭気は、次第に持つ手を伝って、袖にも移りそうに思われる。 紫玉は、樹の下に涼傘を畳んで、滝を斜めに・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・……しかし御口中ぐらいになさいませんと、これから飛道具を扱います。いえ、第一遠く離れていらっしゃるで、奥方の方で御承知をなさいますまい。はははは、御遠慮なくお先へ。……しかしてその上にゆっくりと。」 階子段に足踏して、「鷭だよ、鷭だ・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・「どうぞ、お試し下さい、ねえ、是非一回御試験が仰ぎたい。口中に熱あり、歯の浮く御仁、歯齦の弛んだお人、お立合の中に、もしや万一です。口の臭い、舌の粘々するお方がありましたら、ここに出しておきます、この芳口剤で一度漱をして下さい。」 ・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・けし入軽焼の義は世上一流被為有御座候通疱瘡はしか諸病症いみもの決して無御座候に付享和三亥年はしか流行の節は御用込合順番札にて差上候儀は全く無類和かに製し上候故御先々様にてかるかるやきまたは水の泡の如く口中にて消候ゆゑあはかるやきかつ私家名淡・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 瞬く間に水、焼酎、まだ何やらが口中へ注入れられたようであったが、それぎりでまた空。 担架は調子好く揺れて行く。それがまた寝せ付られるようで快い。今眼が覚めたかと思うと、また生体を失う。繃帯をしてから傷の痛も止んで、何とも云えぬ愉快・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・支那の古俗では、身分のある死者の口中には玉を含ませて葬ることもあるのだから、酷い奴は冢中の宝物から、骸骨の口の中の玉まで引ぱり出して奪うことも敢てしようとしたこともあろう。いけんあたりとか聞いたが、今でも百姓が冬の農暇になると、鋤鍬を用意し・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・草を茵とし石を卓として、谿流のえいかいせる、雲烟の変化するを見ながら食うもよし、かつ価も廉にして妙なりなぞとよろこびながら、仰いで口中に卵を受くるに、臭鼻を突き味舌を刺す。驚きて吐き出すに腐れたるなり。嗽ぎて嗽げども胸わろし。この度は水の椀・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・ と彼女の名を口中で呼んで見て、半町ほども行ってから、振返って見た。明るい黄緑の花を垂れた柳並木を通して、電車通の向側へ渡って行く二人の女連の姿が見えた……その一人が彼女らしかった…… 彼女はまだ若く見えた。その筈だ、大塚さんと結婚・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・がりりと口中で音がした。吐き出して見ると、梅干である。私はその種を噛みくだいてしまっていた。歯の悪い私が、梅干のあの固い種を噛みくだいたのである。ぞっとした。 しかし、これでもまだ、故郷までの全旅程の三分の一くらいしか来ていないのである・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・が、老生には何にもまして嬉しく有難く、入歯なんかどうでもいいというような気持にさえ相成り、然れども入歯もまた見つかってわるい筈は無之、老生は二重にも三重にも嬉しく、杉田老画伯よりその入歯を受取り直ちに口中に含み申候いしが、入歯には桜の花びら・・・ 太宰治 「花吹雪」
出典:青空文庫