・・・ お蓮は牧野にこう云われても、無理にちょいと口元へ、微笑を見せたばかりだった。が、田宮は手を振りながら、すぐにその答えを引き受けた。「大丈夫。大丈夫だとも。――ねえ、お蓮さん。この膃肭獣と云うやつは、牡が一匹いる所には、牝が百匹もく・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 燈火に対して、瞳清しゅう、鼻筋がすっと通り、口許の緊った、痩せぎすな、眉のきりりとした風采に、しどけない態度も目に立たず、繕わぬのが美しい。「これは憚り、お使い柄恐入ります。」 と主人は此方に手を伸ばすと、見得もなく、婦人は胸・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・と打棄ったように忌々しげに呟いて、頬冠を取って苦笑をした、船頭は年紀六十ばかり、痩せて目鼻に廉はあるが、一癖も、二癖も、額、眦、口許の皺に隠れてしおらしい、胡麻塩の兀頭、見るから仏になってるのは佃町のはずれに独住居の、七兵衛という親仁である・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ しかし、細目に開けた、大革鞄の、それも、わずかに口許ばかりで、彼が取出したのは一冊赤表紙の旅行案内。五十三次、木曾街道に縁のない事はないが。 それを熟と、酒も飲まずに凝視めている。 私も弁当と酒を買った。 大な蝦蟆とでもあ・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・緊った口許が、莞爾する時ちょっとうけ口のようになって、その清い唇の左へ軽く上るのが、笑顔ながら凜とする。総てが薄手で、あり余る髪の厚ぼったく見えないのは、癖がなく、細く、なよなよとしているのである。緋も紅も似合うものを、浅葱だの、白の手絡だ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 差さるる盃を女は黙って受けたが、一口附けると下に置いて、口元を襦袢の袖で拭いながら、「金さん、一つ相談があるが聞いておくれでないか?」「ひどく改まったね。何だい、相談てえのは?」「ほかではないがね、お前さんに一人お上さんを取り・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 早生れの安子は七つで小学校に入ったが、安子は色が白く鼻筋がツンと通り口許は下唇が少し突き出たまま緊り、眼許のいくらか上り気味なのも難にならないくらいの器量よしだったから、三年生になると、もう男の子が眼をつけた。その学校は土地柄風紀がみ・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・その間耕吉は隠しきれない不安な眼つきに注意を集めて、先生の顔色を覗っていたが、先生の口元には同じような微笑しか浮んでこなかった。見終って先生は多少躊躇してる風だったが、「何しろ困りましたですなあ。しかしそういう御事情で出京なさったという・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・われら急に内に入りて二人を求めしに、二郎は元の席にあり、十蔵はそのそばの椅子に座し、二郎が眼は鋭く光りて顔色は死人かと思わるるばかり蒼白く、十蔵は怪しげなる微笑を口元に帯びてわれらを迎えぬ。あまりの事に人々出す言葉を知らざりき。倶楽部員は二・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・村長は怪しげな微笑を口元に浮べている。「エえまア聞いてくれこうだ、乃公は娘を連れて井下聞吉の所へも江藤三輔の所へも行った、エえ、故国からわざわざ乃公が久しぶりに娘まで連れて行ったのだから何とか物の言い方も有ろうじゃア、それを何だ! 侯爵・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
出典:青空文庫