・・・いや、いや、私はそう云う都合の好い口実の後で、あの人に体を任かした私の罪の償いをしようと云う気を持っていた。自害をする勇気のない私は。少しでも世間の眼に私自身を善く見せたい、さもしい心もちがある私は。けれどもそれはまだ大目にも見られよう。私・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・同時に体の好い口実に瀕死の子供を使ったような気がした。 N君の帰ったか帰らないのに、伯母も病院から帰って来た。多加志は伯母の話によれば、その後も二度ばかり乳を吐いた。しかし幸い脳にだけは異状も来ずにいるらしかった。伯母はまだこのほかに看・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・ 固より口実、狐が化けた飛脚でのうて、今時町を通るものか。足許を見て買倒した、十倍百倍の儲が惜さに、貉が勝手なことを吐く。引受けたり平吉が。 で、この平さんが、古本屋の店へ居直って、そして買戻してくれた錦絵である。 が、その後、・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
上 実は好奇心のゆえに、しかれども予は予が画師たるを利器として、ともかくも口実を設けつつ、予と兄弟もただならざる医学士高峰をしいて、某の日東京府下の一病院において、渠が刀を下すべき、貴船伯爵夫人の手術をば予をして見せしむることを・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・手と膝頭を擦り剥いただけでしたが、私は手ぶらで帰っても浜子に折檻されない口実ができたと思ったのでしょう、通りかかった人が抱き起しても、死んだようになっていました。 ところが、尋常三年生の冬、学校がひけて帰ってくると、新次の泣声が聴えたの・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・婆さんは、じつは田舎の息子がと自分から口実を作って暇をとった。ここは地獄の三丁目、の唄が朝夕きかれた。よく働いた。そんなお君の帰ってきたことを金助は喜んだが、この父は亀のように無口であった。軽部の死についてもついぞ一言も纒まった慰めをしなか・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ 彼はそれが自分自身への口実の、珈琲や牛酪やパンや筆を買ったあとで、ときには憤怒のようなものを感じながら高価な仏蘭西香料を買ったりするのだった。またときには露店が店を畳む時刻まで街角のレストランに腰をかけていた。ストーヴに暖められ、ピア・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・物忘れする子なりともいい、白痴なりともいい、不潔なりともいい、盗すともいう、口実はさまざまなれどこの童を乞食の境に落としつくし人情の世界のそとに葬りし結果はひとつなりき。 戯れにいろは教うればいろはを覚え、戯れに読本教うればその一節二節・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・こちらも、攻撃の時期と口実をねらって相手を睨みつゞけた。 十一月十八日、その彼等の部隊は、東支鉄道を踏み越してチチハル城に入城した。昂鉄道は完全に××した。そして、ソヴェート同盟の国境にむかっての陣地を拡げた。これは、もう、人の知る通り・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ 嗄れた、そこらあたりにひびき渡るような声で喋っていた吉原が、木村の方に向いて、「君はいい口実があるよ。――病気だと云って診断を受けろよ。そうすりゃ、今日、行かなくてもすむじゃないか。」「血でも咯くようにならなけりゃみてくれない・・・ 黒島伝治 「橇」
出典:青空文庫