・・・しかし源三は我が秘密はあくまでも秘密として保って、お浪との会話をいい程のところに遮り、余り帰宅が遅くなってはまた叱られるからという口実のもとに、酒店へと急いで酒を買い、なお村の尽頭まで連れ立って来たお浪に別れて我が村へと飛ぶがごとくに走り帰・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・杜九如の方ではテッキリそれだと思ったから、贋物だったなぞというのは口実だと考えて、約束変改をしたいのが本心だと見た。そこで、「どういたしまして。あの様な贋物があるものではございますまい。仮令贋物にしましたところで、手前の方では結構でございま・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・ 父さんは袖子の兄さん達が学校から帰って来る場合を予想して、娘のためにいろいろ口実を考えた。 昼すこし前にはもう二人の兄さんが前後して威勢よく帰って来た。一人の兄さんの方は袖子の寝ているのを見ると黙っていなかった。「オイ、どうし・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・「君はそれを怠惰のいい口実にして、学校をよしちゃったんだな。事大主義というんだよ。大地震でも起って、世界がひっくりかえったら、なんて事ばかり夢想している奴なんだね、君は。」私は、多少いい気持でお説教をはじめた。「たった一日だけの不安を、・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・それ以外に、送金を願う口実は無かった。実情はとても誰にも、言えたものではなかった。私は共犯者を作りたくなかったのである。私ひとりを、完全に野良息子にして置きたかった。すると、周囲の人の立場も、はっきりしていて、いささかも私に巻添え食うような・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・始め定めた案内料のほかに、いろいろの口実で少しずつ金を取り上げられて、そして案内者を雇っただけの効能はほとんどなかった。ただ一つのおもしろかったのは、麻糸か何かの束を黄蝋で固めた松明を買わされて持って行ったが、噴気口のそばへ来ると、案内者は・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・というものも一度見学の必要がある」という口実で自分もどうしても傍聴に出るのだと主張する。そうして大団円における池田君の運命の暗雲を地平線上にのぞかせるのである。そこへおあつらえ通り例の夕刊売りが通りかかって、それでもう大体の道具立ては出来た・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・わたしは小説たる事を口実として、観察の不備を補うに空想を以てする事の制作上甚危険である事を知っている。それがため適当なるモデルを得るの日まで、この制作を中止しようと思い定めた。 わたしはいかなる断篇たりともその稿を脱すれば、必亡友井上唖・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・け出す、これが巡公でなくって先日の御娘さんだったらやはりすぐさま馳け出されるかどうだかの問題はいざとならなければ解釈がつかないから質問しない方がいいとして先へ進む、さて両君はこの辺の地理不案内なりとの口実をもって覚束なき余に先導たるべしとの・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・狼は如何にして鴉と戦うべき口実を得たか知らぬ。鴉は何を叫んで狼を誣ゆる積りか分らぬ。只時ならぬ血潮とまで見えて迸ばしりたる酒の雫の、胸を染めたる恨を晴さでやとルーファスがセント・ジョージに誓えるは事実である。尊き銘は剣にこそ彫れ、抜き放ちた・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫