・・・夫が妻に対して随分強い不満を抱くことも有り、妻が夫に対して口惜しい厭な思をすることもある。その最も甚しい時に、自分は悪い癖で、女だてらに、少しガサツなところの有る性分か知らぬが、ツイ荒い物言いもするが、夫はいよいよ怒るとなると、勘高い声で人・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・あおまえも、品質が好いからって二合ばかりずつのお酒をその度々に釜川から一里もあるこの釜和原まで買いに遣すような酷い叔母様に使われて、そうして釣竿で打たれるなんて目に逢うのだから、辛いことも辛いだろうし口惜しいことも口惜しいだろうが、先日のよ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・――大川のおかみさんは、私はだまされたという程にも思わないが、警察に入れば直ぐその日から食えなくなるような夫を、何んだって引き入れてくれたかと、そればかり口惜しいと云うのだった。中にいる夫に蜜柑どころか、この寒さに足袋さえ入れてやることが出・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・私から大きに世話を受けているので、それがご自身に口惜しいのだ。あの人は、阿呆なくらいに自惚れ屋だ。私などから世話を受けている、ということを、何かご自身の、ひどい引目ででもあるかのように思い込んでいなさるのです。あの人は、なんでもご自身で出来・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」 勇者は、ひどく赤面した。 太宰治 「走れメロス」
・・・「ああ、発ッてますよ。口惜しいねえ」と、吉里は西宮の腕を爪捻る。「あいた。ひどいことをするぜ。おお痛い」と、西宮は仰山らしく腕を擦る。 小万はにっこり笑ッて、「あんまりひどい目に会わせておくれでないよ、虫が発ると困るからね」・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 去年の中頃に、お節が長病いをした時、貸りてまだ返さずにある十円ばかりの金の事を云い出されては、口惜しいけれど、それでもとは云われなかった。 自分が、それを返す余地がないと知って、余計に見込んで苦しめる様な事をするお金も堪らなく憎ら・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 酔っぱらいは保護室へぶちこまれてからも、「僕ァ……ずつに、ずつに口惜しいです。僕ァこんなところで……僕ァダダ大学生です!」 声を出して咽び泣いている。「五月蠅え野郎だナ。寝ねえか!」 眼の大きい与太者がドス声でどやしつ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・そういうことなら口惜しいけれど可哀そうだから捨てない。そんな話をして、私がこれは随筆になると云ったらスエ子曰ク「吉屋さんものね」。お体をお大切に。夜具はいかがでしょうか。 今やっと鈴虫が鳴きはじめました。野生な声でケチくさくて可愛らしい・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・その婦人は、いかにも口惜しいという顔をして、「利己主義ね!」という。「なんですって、利己主義はお互さまでしょう」その人は、冬、オンドルのある特別室にがんばって動かなかった人である。「流れる星は生きている」は、一人の女性の生存力が、小さい・・・ 宮本百合子 「ことの真実」
出典:青空文庫