・・・ たちまち、口紅のこぼれたように、小さな紅茸を、私が見つけて、それさえ嬉しくって取ろうとするのを、遮って留めながら、浪路が松の根に気も萎えた、袖褄をついて坐った時、あせった頬は汗ばんで、その頸脚のみ、たださしのべて、討たるるように白かっ・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・が、店を立離れてから、思うと、あの、しおらしい女の涙ならば、この袂に受けよう。口紅の色は残らぬが、瞳の影とともに玉を包んだ半紙はここにある。――ちょっとは返事をしなかったのもそのせいだろう。不思議な処へ行合せた、と思ううちに、いや、しかし、・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・簪をぐいと抜いてちょいと見るとね、莞爾笑いながら、そら今口紅の附いた懐紙にぐるぐると巻いて、と戴いたとまあお思い。 可いかい、それを文庫へ了って、さあ寝支度も出来た、行燈の灯を雪洞に移して、こいつを持つとすッと立って、絹の鼻緒の嵌った層・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 咄嗟の間の艶麗な顔の働きは、たとえば口紅を衝と白粉に流して稲妻を描いたごとく、媚かしく且つ鋭いもので、敵あり迫らば翡翠に化して、窓から飛んで抜けそうに見えたのである。 一帆は思わず坐り直した。 処へ、女中が膳を運んだ。「お・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・お寺さんの買ったものは、白い便箋と、口紅と、それから、時計の皮でした。あたしは、お金入れと、(とてもとても気に入ったお金いれよ。焦茶それから口紅も買ったんだけれど、こんな話、やっぱり、つまらない? どうしたのでしょうね。おじさんにも、わるい・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・顔は細長くて蒼白く、おしろいも口紅もつけていないようで、薄い唇は白く乾いている感じであった。かなり度の強い近眼鏡をかけ、そうして眉間には深い縦皺がきざまれていた。要するに、私の最も好かない種属の容色であった。先夜の酔眼には、も少しましなひと・・・ 太宰治 「父」
・・・ れいのあの、きれいな声をした年増の女中は、日が暮れたら、濃い化粧をして口紅などもあざやかに、そうしてお酒やらお料理やらを私どもの部屋に持ち運んで来て、大旦那の言いつけかまたは若旦那の命令か知らぬが、部屋の入口にそれを置いてお辞儀をして・・・ 太宰治 「母」
・・・七夕祭りの祭壇に麻や口紅の小皿といっしょにこのおはぐろ筆を添えて織女にささげたという記憶もある。こういうものを供えて星を祭った昔の女の心根には今の若い婦人たちの胸の中のどこを捜してもないような情緒の動きがあったのではないかという気もするので・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・瞽女でも相当の年頃になれば人に誉められたいのが山々で見えぬ目に口紅もさせば白粉も塗る。お石は其時世を越えて散々な目に逢って来たのである。幾度か相逢ううちにお石も太十の情に絆された。そうでなくとも稀に逢えば誰でも慇懃な語を交換する。お石に逢う・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ リージンの大柄な口紅を濃くつけた細君は、いかにも夫の手抜かりを攻める面持で、自分たちのいる横で二人だけあっちへのせろ、と云っている。リージンは自分から誘って坐席の割前を助かろうとした手前、ではあっちへ二人でとは云いかね、「そんなことは・・・ 宮本百合子 「石油の都バクーへ」
出典:青空文庫