・・・肉のたるんだ先生の顔には、悠然たる微笑の影が浮んでいるのに関らず、口角の筋肉は神経的にびくびく動いている。と思うと、どこか家畜のような所のある晴々した眼の中にも、絶えず落ち着かない光が去来した。それがどうも口にこそ出さないが、何か自分たち一・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
「エロチシズムと文学」というテエマが僕に与えられた課題であります。しかし、僕は「エロチシズムと文学」などというけちくさい取るに足らぬ問題について、口角泡を飛ばして喋るほど閑人でもなければ、物好きでもありません。ほかにもっと考・・・ 織田作之助 「猫と杓子について」
・・・子供たちが訳のわからぬ言葉をするどく島へ吐きつけて、そろって石塀の上から影を消してしまってからも、彼は額に片手をあてたり尻を掻きむしったりしながら、ひどく躊躇をしていたが、やがて、口角に意地わるげな笑いをさえ含めてのろのろと言いだした。・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・私の顔をちらと見てから、口角に少し笑いを含めて、「ひとの見さかいができねえんだ。めくら。――そうじゃない。僕は平凡なのだ。見せかけだけさ。僕のわるい癖でしてね。はじめに逢ったひとには、ちょっとこう、いっぷう変っているように見せたくてたまらな・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・あざけりの笑いを口角にまざまざと浮べて、なんぼでも、ポチを見つめてやる。これは大へんききめがあった。ポチは、おのれの醜い姿にハッと思い当る様子で、首を垂れ、しおしおどこかへ姿を隠す。「とっても、我慢ができないの。私まで、むず痒くなって」・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・ねちねち言っているうちに、唇の色も変り、口角には白い泡がたまって、兇悪な顔にさえ見えて来た。「こんどの須々木乙彦とのことは、ゆるす。いちどだけは、ゆるす。おれは、いま、ずいぶんばかにされた立場に在る。おれにだって、それは、わかっています。は・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・汐田は、口角にまざまざと微笑をふくめて、しかし、と考え込んだ。 それから四五日して私は汐田から速達郵便を受け取った。その葉書には、友人たちの忠告もあり、お互の将来のためにテツさんをくにへ返す、あすの二時半の汽車で帰る筈だ、という意味のこ・・・ 太宰治 「列車」
・・・p.279○口角泡をとばし、手をふるわせて彼はわれわれの世界に悪魔祓いをするのである。p.279○ひとりロシアだけが正しく――反ヨーロッパ的、アジア的 蒙古的 ダッタン的であればあるほど、それだけ正しいのである。保守的 退嬰的 非進・・・ 宮本百合子 「ツワイク「三人の巨匠」」
・・・ 宇平の口角には微かな、嘲るような微笑が閃いた。「おじさん。あなたは神や仏が本当に助けてくれるものだと思っていますか」 九郎右衛門は物に動ぜぬ男なのに、これを聞いた時には一種の気味悪さを感じた。「うん。それは分からん。分からんのが神・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・右の口角から血が糸のように一筋流れている。」 小川はきゃっと声を立てて、半分起した体を背後へ倒した。 翌朝深淵の家へは医者が来たり、警部や巡査が来たりして、非常に雑した。夕方になって、布団を被せた吊台が舁き出された。 近所の人が・・・ 森鴎外 「鼠坂」
出典:青空文庫