・・・ 私も惨めであるが、Fも可哀相だった。彼は中学入学の予習をしているので、朝も早く、晩日が暮れてから遠い由比ヶ浜の学校から帰ってくるのだった。情愛のない、暗い、むしろ陰惨な世界だった。傷みやすい少年の神経は、私の予想以上に、影響されている・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・――先生はふだんから、貧乏な可哀相な人は助けてやらなければならないし、人とけんかしてはいけないと云っていましたね。それだのに、どうして戦争はしてもいいんですか。 先生、お父さんが可哀そうですから、どうか一日も早く戦争なんかやめるようにし・・・ 小林多喜二 「級長の願い」
・・・エンコに出ていて、飲食店の裏口を廻って歩いて、ズケにありついている可哀相なお爺さんだった。五年刑務所にいて、やっとこの正月出てきたんだから、今年の正月だけはシャバでやって行きたいと云っていた。――俺はそのお爺さんと寝てやっているうちに、すっ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ 私は、未だ中学生であったけれども、長兄のそんな述懐を、せっせと筆記しながら、兄を、たまらなく可哀想に思いました。A県の近衛公だなぞと無智なおだてかたはしても、兄のほんとうの淋しさは、誰も知らないのだと思いました。 次兄は、この創刊・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・極度に気が弱って、いまは、無智な頑迷の弟子たちにさえ縋りつきたい気持になっているのにちがいない。可哀想に。あの人は自分の逃れ難い運命を知っていたのだ。その有様を見ているうちに、私は、突然、強力な嗚咽が喉につき上げて来るのを覚えた。矢庭にあの・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・ 近在の人らしい両親に連れられた十歳くらいの水兵服の女の子が車に酔うて何度ももどしたりして苦しそうであるが、苦しいともいわずに大人しく我慢しているのが可哀相であった。白骨温泉へ行くのだそうで沢渡で下りた。子供も助かったであろうが自分もほ・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・と云ったら、寝衣を畳みながら「マア可哀相にあの人も御かみさんの居た頃はあんなでもなかったんですけれど」と何か身につまされでもしたようにしみじみと云った。自分はそれに答えず縁側の柱に凭れたまま、嵐も名残と吹き散る白雲の空をぼんやり眺めていた。・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・お石は可哀想だから救って来たのだといった。太十は独で笑いながら懐へ入れて見ると矢張りくるりとなって寝た。鍋の破片へ飯をくれたが食わない。味噌汁をかけてやったらぴしゃぴしゃと甞めた。暫くすると小さいながら尾を動かしてちょろちょろと駈け歩いた。・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・この暑いのに剣ばかり下げていなければすまないのは可哀想だ。騎兵とは馬に乗るものである。これも御尤には違ないが、いくら騎兵だって年が年中馬に乗りつづけに乗っている訳にも行かないじゃありませんか。少しは下りたいでさア。こう例を挙げれば際限がない・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・本来なら剛健党が玉子なんぞを食うのは、ちと贅沢の沙汰だが、可哀想でもあるから、――さあ食うがいい。――姉さん、この恵比寿はどこでできるんだね」「おおかた熊本でござりまっしょ」「ふん、熊本製の恵比寿か、なかなか旨いや。君どうだ、熊本製・・・ 夏目漱石 「二百十日」
出典:青空文庫