・・・だから、彼のこの虚栄心は、金無垢の煙管を愛用する事によって、満足させられると同じように、その煙管を惜しげもなく、他人にくれてやる事によって、更によく満足させられる訳ではあるまいか。たまたまそれを河内山にやる際に、幾分外部の事情に、強いられた・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・ 汀で、お誓を抱いた時、惜しや、かわいそうに、もういけないと思った。胸に硝薬のにおいがしたからである。 水を汲もうとする処へ、少年を促がしつつ、廻り駈けに駈けつけた孫八が慌しく留めた。水を飲んじゃなりましねえ。山野に馴れた爺の目には・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ははあ、膝栗毛時代に、峠路で売っていた、猿の腹ごもり、大蛇の肝、獣の皮というのはこれだ、と滑稽た殿様になって件の熊の皮に着座に及ぶと、すぐに台十能へ火を入れて女中さんが上がって来て、惜し気もなく銅の大火鉢へ打ちまけたが、またおびただしい。青・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・弟を深田へ縁づけたということをたいへん見栄に思ってた嫂は、省作の無分別をひたすら口惜しがっている。「省作、お前あの家にいないということがあるもんか」 何べん繰り返したかしれない。頃は旧暦の二月、田舎では年中最も手すきな時だ。問題に趣・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・僕は大切な時間を取られるのが惜しかったので、いい加減に教えてすましてしまうと、「うちの芸者も先生に教えていただきたいと言います」と言い出した。「面倒くさいから、厭だよ」と僕は答えたが、跡から思うと、その時からすでにその芸者は僕を・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・二時となり三時となっても話は綿々として尽きないで、余り遅くなるからと臥床に横になって、蒲団の中に潜ずり込んでしまってもなおこのまま眠てしまうのが惜しそうであった。「寝よう乎」と寝返りしては復た暫らくして、「どうも寝られない」と向き直ってポツ・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・独り三郎は、なごり惜しそうにしてさびしく、一人で我が家の方へ帰っていったのであります。 小川未明 「少年の日の悲哀」
・・・ 幸福者だよ、何も聞ずに、傷の痛みも感ぜずに、昔を偲ぶでもなければ、命惜しとも思うまい。銃劒が心臓の真中心を貫いたのだからな。それそれ軍服のこの大きな孔、孔の周囲のこの血。これは誰の業? 皆こういうおれの仕業だ。 ああ此様な筈ではなかっ・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ がらす砕け失せし鏡の、額縁めきたるを拾いて、これを焼くは惜しき心地すという児の丸顔、色黒けれど愛らし。されどそはかならずよく燃ゆとこの群の年かさなる子、己のが力にあまるほどの太き丸太を置きつついえり。その丸太は燃えじと丸顔の子いう。い・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・ 支柱を惜しがって使わねえからこんなことになっちゃうんだ!」武松は死者を上着で蔽いながら呟いた。「俺れゃ、今日こそは、どうしたって我慢がならねえ! まるでわざと殺されたようなもんだぞ!」「せめて、あとの金だけでも、一文でもよけに取ってや・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
出典:青空文庫