・・・だから一つ牧野さんだと思って、――可愛い牧野さんだと思って御上んなさい。」「何を云っているんだ。」 牧野はやむを得ず苦笑した。「牡が一匹いる所に、――ねえ、牧野さん、君によく似ているだろう。」 田宮は薄痘痕のある顔に、一ぱい・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・こう可愛がられても肝べ焼けるか。可愛い獣物ぞい汝は。見ずに。今にな俺ら汝に絹の衣装べ着せてこすぞ。帳場の和郎(彼れは所きらわず唾が寝言べこく暇に、俺ら親方と膝つきあわして話して見せるかんな。白痴奴。俺らが事誰れ知るもんで。汝ゃ可愛いぞ。心か・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・おれ自身が何よりも可愛いから歌を作る。しかしその歌も滅亡する。理窟からでなく内部から滅亡する。しかしそれはまだまだ早く滅亡すれば可いと思うがまだまだだ。日本はまだ三分の一だ。B いのちを愛するってのは可いね。君は君のいのちを愛して歌を作・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・「そうかい、此家は広いから、また迷児にでもなってると悪い、可愛い坊ちゃんなんだから。」とぴたりと帯に手を当てると、帯しめの金金具が、指の中でパチリと鳴る。 先刻から、ぞくぞくして、ちりけ元は水のような老番頭、思いの外、女客の恐れぬを・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・しかし子供は慥に可愛いな。子供が出来ると成程心持も変る。今度のは男だから親父が一人で悦んでるよ」「一昨年来た時には、君も新婚当時で、夢現という時代であったが、子供二人持っての夫婦は又別種の趣があろう」「オイ未だか」 岡村が吐鳴る・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・「馬鹿な子ほど可愛いものだと言うけれど、ほんとうにまたあのお袋が可愛がっておるのでござります」お貞は僕にさも憎々しそうに言った。「あんな者でも、おってくれれば事がすんで行くけれど、おらなくなれば、またその代りを一苦労せにゃならん。――お・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ジャレ付くのが可愛いような犬ではなかったが、二葉亭はホクホクしながら、「こらこら、畳の上が泥になる、」と細い眼をして叱りつけ、庭先きへ追出しては麺麭を投げてやった。これが一日の中の何よりの楽みであった。『平凡』に「……ポチが私に対うと……犬・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・おじいさんや、おばあさんは、その可愛い孫の我儘とか癇癪持とか、或は、臆病とかの欠点をよく知っています。お話のなかに、自然とそれを自得して直すように、面白く語られるうちにも用意を忘れません。真に、愛がなくてはできぬことです。そして、この教化は・・・ 小川未明 「童話を書く時の心」
・・・ 金助がお君に、お前は、と訊くと、お君は、おそらく物心ついてからの口癖であるらしく、表情一つ動かさず、しいていうならば、綺麗な眼の玉をくるりくるりと廻した可愛い表情で、「私か、私はどないでもよろしおま」 あくる日、金助が軽部を訪・・・ 織田作之助 「雨」
・・・「巡査というものもじつに可愛いものだ……」耕吉は思わず微笑した。 それきり小僧とは別の客車だったので顔を合わさなかった。が彼は思いもかけず自分の前途に一道の光明を望みえたような軽い気持になって、汽車の進むにしたがって、田圃や山々にま・・・ 葛西善蔵 「贋物」
出典:青空文庫