・・・切り、私の部屋の畳は新しく、机上は整頓せられ、夫婦はいたわり、尊敬し合い、夫は妻を打った事など無いのは無論、出て行け、出て行きます、などの乱暴な口争いした事さえ一度も無かったし、父も母も負けずに子供を可愛がり、子供たちも父母に陽気によくなつ・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・しかし子供が可愛くてならぬという風でもない。ただ一心に何事かに凝り固まって世間の風が何処を吹くのも知る余裕がないといったようである。自分はこんな場合を見かけるとなんだか可笑しくもありまた気の毒な気がした。黒田はあれはこの世界に金を溜める以外・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
四五日前に、善く人にじゃれつく可愛い犬ころを一匹くれて行った田町の吉兵衛と云う爺さんが、今夜もその犬の懐き具合を見に来たらしい。疳癪の強そうな縁の爛れ気味な赤い目をぱちぱち屡瞬きながら、獣の皮のように硬張った手で時々目脂を拭いて、茶の・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・それは去年の秋の頃、綿のような黄金色なす羽に包まれ、ピヨピヨ鳴いていたのをば、私は毎日学校の行帰り、餌を投げ菜をやりして可愛がったが、今では立派に肥った母鶏になったのを。ああ、二羽が二羽とも、同じ一声の悲鳴と共に、田崎の手に首をねじられ、喜・・・ 永井荷風 「狐」
・・・「気の毒な、もうやるか、可愛相にのう」といえば、「気の毒じゃが仕方がないわ」と真黒な天井を見て嘯く。 たちまち窖も首斬りもカンテラも一度に消えて余はボーシャン塔の真中に茫然と佇んでいる。ふと気がついて見ると傍に先刻鴉に麺麭をやりたいと云・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・特に幼き女の子はたまらぬ位に可愛いとのことである。情濃やかなる君にしてこの子を失われた時の感情はいかがであったろう。亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、ただわけもなく可愛いのである、甘いものは甘い、辛いものは辛いというの外にない。これ・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・睨まれると凄いような、にッこりされると戦いつきたいような、清しい可愛らしい重縁眼が少し催涙で、一の字眉を癪だというあんばいに釣り上げている。纈り腮をわざと突き出したほど上を仰き、左の牙歯が上唇を噛んでいるので、高い美しい鼻は高慢らしくも見え・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 魯迅は十三の年、可愛がってくれていた祖父が獄舎につながれるようなことになってから極度に落魄して、弟作人と一緒に母方の伯父の家にあずけられた。魯迅は「そこの家の虐遇に堪えかねて間もなく作人をそこに残して自分だけ杭州の生家へ帰った」そして・・・ 宮本百合子 「兄と弟」
・・・ しかし奥様がどことなく萎れていらしって恍惚なすった御様子は、トント嬉かった昔を忍ぶとでもいいそうで、折ふしお膝の上へ乗せてお連になる若殿さま、これがまた見事に可愛い坊様なのを、ろくろくお愛しもなさらない塩梅、なぜだろうと子供心にも思いまし・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・亡きわが児が可愛いのは何の理由もない、ただわけもなく可愛い。甘いものは甘い、辛いものは辛いというと同じように可愛い。ここまで育てて置いて亡くしたのは惜しかろうと言って同情してくれる人もあるが、そんな意味で惜しいなどという気持ちではない。また・・・ 和辻哲郎 「初めて西田幾多郎の名を聞いたころ」
出典:青空文庫