・・・からだが、ほっそりして、手足が可憐に小さく、二十三、四、いや、五、六、顔は愁いを含んで、梨の花の如く幽かに青く、まさしく高貴、すごい美人、これがあの十貫を楽に背負うかつぎ屋とは。 声の悪いのは、傷だが、それは沈黙を固く守らせておればいい・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・そこに、恋もあり、涙もあり、未死の魂もあり、日本国民としての可憐の愛国心が生きて蘇ってきているのであった。私は野に咲いた花を折ってきてそこに手向けた。 私は秋の日など、寺の本堂から、ひろびろとした野を見渡した。黄いろく色ついた稲、それに・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・の最後の幕で、塹壕のそばの焦土の上に羽を休めた一羽の蝶を捕えようとする可憐なパウルの右手の大写しが現われる。たちまち、ピシンと鞭ではたくような銃声が響く。パウルの手は瞬時に痙攣する、そうして静かに静かに力が抜けて行くのである。 音と光と・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・一番目の同じようなシーンでは観客はまだそこに現われる群集の一人一人の素性について何も知らなかったのであるが、この二度目の同じ場面では一人一人の来歴、またその一人一人がアルベールならびに連れ立った可憐のポーラに対する交渉がちゃんとわかっている・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・日本という庭園的の国土に生ずる秩序なき、淡泊なる、可憐なる、疲労せる生活及び思想の、弱く果敢き凡ての詩趣を説明するものであろう。八 然り、多年の厳しい制度の下にわれらの生活は遂に因襲的に活気なく、貧乏臭くだらしなく、頼りなく・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 三 袖 可憐なるエレーンは人知らぬ菫の如くアストラットの古城を照らして、ひそかに墜ちし春の夜の星の、紫深き露に染まりて月日を経たり。訪う人は固よりあらず。共に住むは二人の兄と眉さえ白き父親のみ。「騎士はいずれに・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・……運命が逆まに回転するとこう行くものだ。可憐なる彼ら――可憐は取消そう二人とも可憐という柄ではない――エー不憫なる――憫然なる彼らはあくまでも困難と奮戦しようという決心でついに下宿を開業した。その開業したての煙の出ているところへ我輩は飛び・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・四つ辻の赤いポストも美しく、煙草屋の店にいる娘さえも、杏のように明るくて可憐であった。かつて私は、こんな情趣の深い町を見たことがなかった。一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう。私は地理を忘れてしまった。しかし時間の計算から、それが私の・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・と、可憐にも当時の不十分に心の深められていなかった鉄則に屈することが、描かれているのである。 片岡氏は、当時のブルジョア道徳が逆宣伝的に、階級闘争に従う前衛のはなはだしく困難な生活の中に、不可避的に起ったさまざまの恋愛錯雑を嘲笑したのに・・・ 宮本百合子 「新しい一夫一婦」
・・・愛する同胞の可憐なる瞳より「生命」の光が今消え去らんとする一瞬にも彼らは互いに二間の距離を越えて見かわすのみである。ただ一度かの暖かき手を握りたい、ああ玉の緒の絶え行く前に今一度彼の膝に……と狂人のように猛り立つ。びたる鉄鎖はただ重げに音す・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫