・・・ 老紳士はポケットをさぐって、一枚の名刺を本間さんの前へ出して見せた。名刺には肩書きも何も、刷ってはない。が、本間さんはそれを見て、始めて、この老紳士の顔をどこで見たか、やっと思い出す事が出来たのである。――老紳士は本間さんの顔を眺めな・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・僕はいろんな人の名刺をうけとるのに忙殺された。 すると、どこかで「死は厳粛である」と言う声がした。僕は驚いた。この場合、こんな芝居じみたことを言う人が、僕たちの中にいるわけはない。そこで、休所の方をのぞくと、宮崎虎之助氏が、椅子の上への・・・ 芥川竜之介 「葬儀記」
・・・ 又夏目先生の御葬式の時、青山斎場の門前の天幕に、受附を勤めし事ありしが、霜降の外套に中折帽をかぶりし人、わが前へ名刺をさし出したり。その人の顔の立派なる事、神彩ありとも云うべきか、滅多に世の中にある顔ならず。名刺を見れば森林太郎とあり・・・ 芥川竜之介 「森先生」
・・・そして――確に預る、決して迂散なものでない――と云って、ちゃんと、衣兜から名刺を出してくれました。奥様は、面白いね――とおっしゃいました。それから日を極めまして、同じ暮方の頃、その男を木戸の外まで呼びましたのでございます。その間に、この、あ・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・すっかり身支度をして、客は二階から下りて来て――長火鉢の前へ起きて出た、うちの母の前へ、きちんと膝に手をついて、―― 分外なお金子に添えて、立派な名刺を――これは極秘に、と云ってお出しなすったそうですが、すぐに式台へ出なさいますから・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・出来心で名刺を通じて案内を請うと、暫らくして夫人らしい方が出て来られて、「ドウいう御用ですか?」 何しろ社交上の礼儀も何も弁えない駈出しの書生ッぽで、ドンナ名士でも突然訪問して面会出来るものと思い、また訪問者には面会するのが当然で、謝絶・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 秋の末に帰京すると、留守中の来訪者の名刺の中に意外にも長谷川辰之助の名を発見してあたかも酸を懐うて梅実を見る如くに歓喜し、その翌々日の夕方初めて二葉亭を猿楽町に訪問した。 丁度日が暮れて間もなくであった。座敷の縁側を通り過ぎて陰気・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・と、紳士は、名刺を取り出して、信吉に渡しました。名刺には、東京の住所と文学博士山本誠という名が書いてありました。「私は、古代民族の歴史を研究しているので、こうして、方々を歩いています。」といいました。 信吉は、自分の持っているものが・・・ 小川未明 「銀河の下の町」
・・・官立第三高等学校第六十期生などと名刺に印刷している奴を見て、あほらしいより情けなかった。 入学して一月も経たぬうちに理由もなく応援団の者に撲られた。記念祭の日、赤い褌をしめて裸体で踊っている寄宿生の群れを見て、軽蔑のあまり涙が落ちた。ど・・・ 織田作之助 「雨」
・・・いえ、誰方にも名刺を下さいます。私もいただきました」 見せて貰うと、洗濯屋の名刺のように大きな名刺で「伯爵勲一等板垣退助五女……」という肩書がれいれいしくはいっていた。 彼はがっかりして会わずに帰った。・・・ 織田作之助 「民主主義」
出典:青空文庫