・・・のみならずいろいろな雑音はその音源の印象が不判明であるがために、その喚起する連想の周囲には簡単に名状し記載することのできない潜在意識的な情緒の陰影あるいは笹縁がついている。音の具象性が希薄であればあるほど、この陰影は濃厚になる。それだから、・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・その苦しみはとても名状が出来ぬ。やっとその始末が付いたと思うと今度は手とも足とも胸とも云わず、綿のように柔らかい、しかも鉛のように重いもので、しっかり抑え付けられる。藻掻きたくても体は一寸も動かぬ。そのうちに自分のからだは深い深い地の底へ静・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・ 雨上がりの、それはひどい震災後の道路を、自動車で残酷に揺られて行くうちに、朝から身体のどこかに隠れていた、名状の出来ないものの塊が、だんだんにからだ中に拡がって来るようであった。その日は実際、荒れ果てた東京の街の上に、一面に灰色の霧の・・・ 寺田寅彦 「議会の印象」
・・・みんな心の中に何かしらある名状し難い空虚を感じている。銀座の舗道を歩いたらその空虚が満たされそうな気がして出かける。ちょっとした買い物でもしたり、一杯の熱いコーヒーでも飲めば、一時だけでもそれが満たされたような気がする。しかしそんなことでな・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ それである日鏡の前にすわって、自分の顔をつくづく見てみると、顔色が悪くて頬がたるんで目から眉のへんや口もとには名状のできない暗い不愉快な表情がただようているので、かいてみる勇気が一時になくなってしまった。そのうちにまた天気のいい気分の・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・もちろんその当時そんな自覚などあろうはずはなかったが、しかし名状のできないこの臭気に堪えかねて、とうとう脳貧血を起こしたのであった。 もっとも幼時の自分は常に病弱で神経過敏で、たとえば群集に交じって芝居など見ていても、よく吐きけを催した・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・其の瞬間に経験した奇異なる心況は殆名状することの出来ないほど複雑なものであった。観客の言語服装と舞台の世界とは全然別種のもので、其間に何等の融和すべきものがない。これに加るに残暑の殊に烈しかった其年の気候はわたくしをして更に奇異なる感を増さ・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・ そのくせ周囲の空気には名状すべからざる派出な刺激があって、一方からいうと前後を忘れ、自我を没して、この派出な刺激を痛切に味いたいのだから困ります。その意味からいうと、美々しい女や華奢な男が、天地神明を忘れて、当面の春色に酔って、優越な・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・ 彼は屍骸の腕を持っていた。そして周りを見回した。ちょうど犬がするように少し顎を持ち上げて、高鼻を嗅いだ。 名状しがたい表情が彼の顔を横切った。とまるで、恋人の腕にキッスでもするように、屍の腕へ口を持って行った。 彼は、うまそう・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・幸にして今日に及びようやく旧に復するの模様あれども、空しく二年の時日を失い、生徒分散、家屋荒廃、書籍を失い器械を毀ち、その零落、名状するに堪えず。あたかも文学の気は二年の間窒塞せしが如し。天下一般の大損亡というべし。先にこの開成所をして平人・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
出典:青空文庫