・・・ 銀灰色の靄と青い油のような川の水と、吐息のような、おぼつかない汽笛の音と、石炭船の鳶色の三角帆と、――すべてやみがたい哀愁をよび起すこれらの川のながめは、いかに自分の幼い心を、その岸に立つ楊柳の葉のごとく、おののかせたことであろう。・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・ 本多子爵はこう云って、かすかな吐息を洩しながら、しばらくの間口を噤んだ。じっとその話に聞き入っていた私は、子爵が韓国京城から帰った時、万一三浦はもう物故していたのではないかと思って、我知らず不安の眼を相手の顔に注がずにはいられなかった・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・その時彼女の心の上には、あらゆる経験を超越した恐怖が、…… 房子は一週間以前の記憶から、吐息と一しょに解放された。その拍子に膝の三毛猫は、彼女の膝を飛び下りると、毛並みの美しい背を高くして、快さそうに欠伸をした。「そんな気は誰でも致・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ オルガンティノは吐息をした。この時偶然彼の眼は、点々と木かげの苔に落ちた、仄白い桜の花を捉えた。桜! オルガンティノは驚いたように、薄暗い木立ちの間を見つめた。そこには四五本の棕櫚の中に、枝を垂らした糸桜が一本、夢のように花を煙らせて・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・ 三右衛門はちょっと言葉を切り、さらに言葉をと云うよりは、吐息をするようにつけ加えた。「その上あの多門との試合は大事の試合でございました。」「大事の試合とはどう云う訣じゃ?」「数馬は切り紙でござりまする。しかしあの試合に勝っ・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・が、そのもっともかすかな吐息には、幾度も同情せずにいられなかった。――日は遠く海の上を照している。海は銀泥をたたえたように、広々と凪ぎつくして、息をするほどの波さえ見えない。その日と海とをながめながら、樗牛は砂の上にうずくまって、生というこ・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・その内にもう二人は、約束の石河岸の前へ来かかりましたが、お敏は薄暗がりにつくばっている御影の狛犬へ眼をやると、ほっと安心したような吐息をついて、その下をだらだらと川の方へ下りて行くと、根府川石が何本も、船から挙げたまま寝かしてある――そこま・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・産婆も、後から駈けつけてくれた医者も、顔を見合わして吐息をつくばかりだった。医師は昏睡が来る度毎に何か非常の手段を用いようかと案じているらしかった。 昼過きになると戸外の吹雪は段々鎮まっていって、濃い雪雲から漏れる薄日の光が、窓にたまっ・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ お民は答えず、ほと吐息。円髷艶やかに二三段、片頬を見せて、差覗いて、「ここは閉めないで行きますよ。」明治三十八年六月 泉鏡花 「女客」
・・・糖蝦の塩辛、畳み鰯を小皿にならべて菜ッ葉の漬物堆く、白々と立つ粥の湯気の中に、真赤な顔をして、熱いのを、大きな五郎八茶碗でさらさらと掻食って、掻食いつつ菊枝が支えかねたらしく夜具に額をあてながら、時々吐息を深くするのを、茶碗の上から流眄に密・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
出典:青空文庫