・・・なく巡って今一個所という真際になって気のゆるんだ者か、そのお寺の門前ではたと倒れた、それを如何にも残念と思うた様子で、喘ぎ喘ぎ頭を挙げて見ると、目の前に鼻の欠けた地蔵様が立ってござるので、その地蔵様に向いて、未来は必ず人間界に行かれるよう六・・・ 正岡子規 「犬」
・・・ 僕はいくら下を向いていても炉のなかへ涙がこぼれて仕方なかった。それでもしばらくたってからそんなら僕はもう行かなくてもいいからと云った。ぼくはみんなが修学旅行へ発つ間休みだといって学校は欠席しようと思ったのだ。すると父がまたしばらくだま・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ あきれば、「又来ます、気が向いたら。と云って一人でさっさと帰って行く。 私は、私より二寸位背の高い彼の人が、私の貸した本を腕一杯に抱えて、はじけそうな、銀杏返しを見せて振り向きもしないで、町風に内輪ながら早足に歩い・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・こう言って忠利は今まで長十郎と顔を見合わせていたのに、半分寝返りをするように脇を向いた。「どうぞそうおっしゃらずに」長十郎はまた忠利の足を戴いた。「いかんいかん」顔をそむけたままで言った。 列座の者の中から、「弱輩の身をもって推・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・どっちへ向いて歩いているか、自分には分からない。しかし一度死んだものは、死に向って帰って行くより外無いのである。 初め旅立をした大きい家に帰り着いた頃は、日が暮れてから大ぶ時間が立っていた。 ここにはもう万事知れている。門番が詰所か・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・年を取ッた武者は北東に見えるかたそぎを指さして若いのに向い、「誠に広いではおじゃらぬか。いずくを見ても原ばかりじゃ。和主などはまだ知りなさるまいが、それあすこのかたそぎ、のうあれが名に聞ゆる明神じゃ。その、また、北東には浜成たちの観世音・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・娘は後を向いて見て、それから若者の肩の荷物にまた手をかけた。「私が持とう。もう肩が直ったえ。」 若者はやはり黙ってどしどしと歩き続けた。が、突然、「知れたらまた逃げるだけじゃ。」と呟いた。 五 宿場の場庭・・・ 横光利一 「蠅」
・・・ エルリングは、俯向いたままで長い螺釘を調べるように見ていたが、中音で云った。「冬は中々好うございます。」 己はその顔を見詰めて、首を振った。そして分疏のように、こう云った。「余計な事を聞くようだが、わたしは小説を書くものだから・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ フィンクは思わず八の字髭をひねって、親切らしい風をして暗い隅の方へ向いた。「奥さん。あなたもやはりあちらへ、ニッツアへ御旅行ですか。」「いいえ。わたくしは国へ帰りますの。」「まだ三月ではありませんか。独逸はまだひどく寒いの・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・どの方角を向いてもそうであった。地上には、葉の上へぬき出た蓮の花のほかに、何も見えなかった。 これは全く予想外の光景であった。私たちは蓮の花の近接した個々の姿から、大量の集団的な姿や、遠景としての姿をまで、一挙にして与えられたのである。・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫