・・・これにはさすがな間喜兵衛も、よくよく可笑しかったものと見えて、傍の衝立の方を向きながら、苦しそうな顔をして笑をこらえていた。「伝右衛門殿も老人はお嫌いだと見えて、とかくこちらへはお出になりませんな。」 内蔵助は、いつに似合わない、滑・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ 老人は今は眼の下に見わたされる自分の領地の一区域を眺めまわしながら、見向きもせずに監督の名を呼んだ。「ここには何戸はいっているのか」「崕地に残してある防風林のまばらになったのは盗伐ではないか」「鉄道と換え地をしたのはどの辺・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ はッと俯向き、両方へ、前後に肩を分けたけれども、ざらりと外套の袖の揺れたるのみ。 かっと逆上せて、堪らずぬっくり突立ったが、南無三物音が、とぎょッとした。 あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫として、ただ夫人のもの・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・人生上から文芸を軽くみて、心の向きしだいに興を呼んで、一時の娯楽のため、製作をこころみるという、君のようなやり方をあえて非難するまで行った。宿についても飲むも食うも気が進まず、新聞を見また用意の本など出してみても、異様に神経が興奮していて、・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・お袋は軽く答えて、僕の方に向き直り、「先生、お父さんはもう帰していいでしょう?」「そこは御随意になすってもらいましょう。――御窮屈なら、お父さん、おさきへ御飯を持って来させますから」と、僕は手をたたいて飯を呼んだ。「お父さんは御飯を・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・大抵は悪紙に描きなぐった泥画であるゆえ、田舎のお大尽や成金やお大名の座敷の床の間を飾るには不向きであるが、悪紙悪墨の中に燦めく奔放無礙の稀有の健腕が金屏風や錦襴表装のピカピカ光った画を睥睨威圧するは、丁度墨染の麻の衣の禅匠が役者のような緋の・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ いまこゝでは、資本家等の経営する職業雑誌が、大衆向きというスローガンを掲げることの誤謬であり、また、この時代に追従しなければならぬ作家等が、資本家の意志を迎えて、いつしか真の芸術を忘れるに至ったことを指摘しようと思います。 先ず、・・・ 小川未明 「作家としての問題」
・・・元は佃島の者で、ここへ引っ越して来てからまだ二年ばかりにもならぬのであるが、近ごろメッキリ得意も附いて、近辺の大店向きやお屋敷方へも手広く出入りをするので、町内の同業者からはとんだ商売敵にされて、何のあいつが吉新なものか、煮ても焼いても食え・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・その路地の一番奥にある南向きの家でした。鰻の寝床みたいな狭い路地だったけれど、しかしその辺は宗右衛門町の色町に近かったから、上町や長町あたりに多いいわゆる貧乏長屋ではなくて、路地の両側の家は、たとえば三味線の師匠の看板がかかっていたり、芝居・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・自分の部屋の西向きの窓は永い間締切りにしてあるのだが、前の下宿の裏側と三間とは隔っていない壁板に西日が射して、それが自分の部屋の東向きの窓障子の磨りガラスに明るく映って、やはり日増に和らいでくる気候を思わせるのだが、電線を鳴らし、窓障子をガ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
出典:青空文庫