・・・僕かね、僕だってうんとあるのさ、けれども何分貧乏とひまがないから、篤行の君子を気取って描と首っ引きしているのだ。子供の時分には腕白者でけんかがすきで、よくアバレ者としかられた。あの穴八幡の坂をのぼってずっと行くと、源兵衛村のほうへ通う分岐道・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・安倍君は君子であります。頼んだ事は引き受けさせようという方の君子。速水君も君子であります。これは頼まない方の君子、遠慮された方の君子でありますが。そういう訳で今日は出ましたので、演説をする前に言訳がましい事をいうのは甚だ卑怯なようであります・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・心の底までは受合わないがまず挙動だけは君子のやるべき事をやっているんだ。実に立派なものだと自ら慰めている。 しかしながら冬の夜のヒューヒュー風が吹く時にストーヴから煙りが逆戻りをして室の中が真黒に一面に燻るときや、窓と戸の障子の隙間から・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・これを仁人君子と称す。仁人君子は、我が利害を棄てて人のためにし、我に損して他に益すというといえども、その実は決して然らず。その棄るところのものは、形体に属する財物か、または財にひとしき時間、心労にして、その報として得るものには、我が情を慰む・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
・・・けだし心理を知る者、必ずしも徳行の君子に非ず、徳行の君子、つねに心理学に明らかなるものに非ず。両者の間に区別あるは、もとより論をまたざるところなり。本書すでに教科書の名あるからには、これによりて少年学生輩の徳心を誘導して、純良の君子たらしめ・・・ 福沢諭吉 「読倫理教科書」
・・・ 君子の世に処するには、自ら信じ自ら重んずる所のものなかるべからず。即ち自身の他に擢んでて他人の得て我に及ばざる所のものを恃みにするの謂にして、あるいは才学の抜群なるあり、あるいは資産の非常なるあり、皆以て身の重きを成して自信自重の資た・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・一時の豪気は以て懦夫の胆を驚かすに足り、一場の詭言は以て少年輩の心を籠絡するに足るといえども、具眼卓識の君子は終に欺くべからず惘うべからざるなり。 左れば当時積弱の幕府に勝算なきは我輩も勝氏とともにこれを知るといえども、士風維持の一方よ・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・訳語妥当ならざるは自らこれを知るといえども匆卒の際改竄するに由なし。君子幸に正を賜え。升 附記 正岡子規 「ベースボール」
・・・「どうもきみたちのうたは下等じゃ。君子のきくべきものではない。」 ふくろうの大将はへんな顔をしてしまいました。すると赤と白の綬をかけたふくろうの副官が笑って云いました。「まあ、こんやはあんまり怒らないようにいたしましょう。うたも・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・そういう技術的な専門通路が、からたち垣の一重外を通っているのであるから、自然、うちへも何度か顔を見せぬ君子が出没した。 私が六つぐらいだった或る夏の夜、蚊帳を吊って弟たち二人はとうにねかされ、私だけ母とその隣りの長四畳の部屋で、父のテー・・・ 宮本百合子 「からたち」
出典:青空文庫