・・・が、寂しい往来には、犬の吠える声さえ聞えなかった。「空耳だよ。何が呼んでなんぞいるものか。」「気のせいですかしら。」「あんな幻燈を見たからじゃないか?」 八 寄席へ行った翌朝だった。お蓮は房楊枝を啣・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 声は水牛の吼えるように薄暗い野原中に響き渡った。同時にまた一痕の残月も見る見る丘のかげに沈んでしまった。……… これは朝鮮に伝えられる小西行長の最期である。行長は勿論征韓の役の陣中には命を落さなかった。しかし歴史を粉飾するのは必ず・・・ 芥川竜之介 「金将軍」
・・・白は余りの恐ろしさに、思わず吠えるのを忘れました。いや、忘れたばかりではありません。一刻もじっとしてはいられぬほど、臆病風が立ち出したのです。白は犬殺しに目を配りながら、じりじり後すざりを始めました。そうしてまた生垣の蔭に犬殺しの姿が隠れる・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・道の二股になった所で左に行こうとすると、闇をすかしていた仁右衛門は吼えるように「右さ行くだ」と厳命した。笠井はそれにも背かなかった。左の道を通って女が通って来るのだ。 仁右衛門はまた独りになって闇の中にうずくまった。彼れは憤りにぶるぶる・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・その内に段々夜吠える声に聞き馴れて、しまいには夜が明けると犬のことを思い出して「クサカは何処に居るかしらん」などと話し合うようになった。 このクサカという名がこういう風に初めてこの犬に附けられた。稀には昼間も木立の茂った中にクサカの姿が・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ ほッと息をすると、びょうびょうと、頻に犬の吠えるのが聞えた。 一つでない、二つでもない。三頭も四頭も一斉に吠え立てるのは、丁ど前途の浜際に、また人家が七八軒、浴場、荒物屋など一廓になって居るそのあたり。彼処を通抜けねばならないと思・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・今までえらそうにぶつ/\云っていた奴が、ワン/\吠えることだけしか出来ねえんだ。へへ、役員の野郎、犬になりやがって、ざま見やがれ!――あいつら、もと/\犬だからね。」「ふむゝ。」 彼等は、珍しがった。作り話と知りつゝ引きつけられた。・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・犬は勝ち誇ったように一吠え吠えると、瞬間、源吉は分けの分らないことを口早に言ったか、と思うと、「怖かない! オッ母ッ!」と叫んだ。 そしてグルッと身体を廻すと、猫がするように塀をもがいて上るような恰好をした。犬がその後から喰らいつた・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・私は、やけくそになって吠えるようにもういちど、「毎日たいへんですね!」と叫びましたが、女は、やはり、え? と聞き直すように、私の顔を見つめます。私は、しょげてしまいました。毎日たいへんですねという言葉そのものが、いったい何の事やら、わけがわ・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・おびえる犬の吠えるのも、この類である。 どろぼうは、すっと立って、「金を出せ。」こんどの声は、充分に、凄く気味わるいものであった。「出すさ。あったら、出すさ。」さすが守銭奴の私も、この暗中の、ただならぬ険悪の気配には、へたばった・・・ 太宰治 「春の盗賊」
出典:青空文庫