・・・一匹一匹、私に吠える。芸者が黒い人力車に乗って私を追い越す。うすい幌の中でふりかえる。八月の末、よく観ると、いいのね、と皮膚のきたない芸者ふたりが私の噂をしていたと家人が銭湯で聞いて来て、と鏡台のまえに坐り、おしろいを、薄くつけながら言った・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・ひとがその傍を通っても、吠えるどころか、薄目をあけて、うっとり見送り、また眼をつぶる。みっともないものである。きたならしい。海の動物にたとえれば、なまこであろうか。なまこは、たまらない。いやらしい。ひとで、であろうか。べっとり岩にへばりつい・・・ 太宰治 「懶惰の歌留多」
・・・ エイゼンシュテインは、日本の文化のあらゆる諸要素がモンタージュ的であると論じ、日本の文字でさえも、口と犬とを合わせて吠えるというようにできあがっていると言い、また歌舞伎についても分解的演技の原理という言葉を使って、役者の頭や四肢の別々・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・はじめには負傷者の床の上で一枚の獣皮を頭から被って俯伏しになっているが、やがてぶるぶると大きくふるえ出す、やがてむっくり起上がって、まるで猛獣の吼えるような声を出したりまた不思議な嘯くような呼気音を立てたりする。この巫女の所作にもどこか我邦・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・ 三 黄は睨み朱は吼える、プルシアンブルーはうめく。鏝で勢いよくきゅうとなでて、ちりちりぱっとくくりをつけて、パイプをくわえて考え込んで、モンパリー、チッペラリー、ラタヽパン。そこでノアルで細筆のフランス文字・・・ 寺田寅彦 「二科狂想行進曲」
・・・赤が吠える声は忽ちに遠くなって畢う。頬白が桑の枝から枝を渡って懶げに飛ぶのを見ると赤は又立ちあがって吠える。桑畑から田から堀の岸を頬白が向の岸へ飛んでなくなるまでは吠える。そうして赤は主人を見失うのである。そういう時には尻尾を脚の間へ曲げこ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・第一僕はぐうぐう寝てしまうから、いつどんなに吠えるのか全く知らんくらいさ。しかし婆さんの訴えは僕の起きている時を択んで来るから面倒だね」「なるほどいかに婆さんでも君の寝ている時をよって御気を御つけ遊ばせとも云うまい」「ところへもって・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 青じろ番兵は ふんにゃふにゃ 吠えるもさないば 泣ぐもさない 瘠せで長くて ぶぢぶぢで どごが口だが あだまだが ひでりあがりの なめぐじら。」 走りながら廻りながら踊りながら、鹿はたびたび風のよう・・・ 宮沢賢治 「鹿踊りのはじまり」
・・・ その裂くような吼えるような風の音の中から、「ひゅう、なにをぐずぐずしているの。さあ降らすんだよ。降らすんだよ。ひゅうひゅうひゅう、ひゅひゅう、降らすんだよ、飛ばすんだよ、なにをぐずぐずしているの。こんなに急がしいのにさ。ひゅう、ひ・・・ 宮沢賢治 「水仙月の四日」
・・・そしてとうとうこらえ切れなくなって、吠えるようにうなって荒々しく自分の谷地に帰って行ったのでした。 土神の棲んでいる所は小さな競馬場ぐらいある、冷たい湿地で苔やからくさやみじかい蘆などが生えていましたが又所々にはあざみ・・・ 宮沢賢治 「土神ときつね」
出典:青空文庫