・・・彼は己を欺いて、この事実を否定するには、余りに正直な人間であった。勿論この事実が不道徳なものだなどと云う事も、人間性に明な彼にとって、夢想さえ出来ない所である。従って、彼の放埓のすべてを、彼の忠義を尽す手段として激賞されるのは、不快であると・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・けれどもそれだけの理由のために半三郎の日記ばかりか、常子の話をも否定するのはいささか早計に過ぎないであろうか? 現にわたしの調べたところによれば、彼の復活を報じた「順天時報」は同じ面の二三段下にこう言う記事をも掲げている。――「美華禁酒・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ しかしこうはいったとて、実際の歴史上の事実として、ロシアには前述したような経路が起こり来たったのだから、私はその事実をも否定しようとするものではない。ブルジョアジーをなくするためには、この階級が自己防衛のために永年にわたって築き上げた・・・ 有島武郎 「広津氏に答う」
・・・少なくとも、進んで新生活に参加する力なしとて、退いて旧生活を守ろうとする場合、新生活を否定しないものであるかぎり、そこに自己の心情の矛盾に対して、平らかなりえない心持ちの動くべきではないか」と片山氏はあるところで言っている。兄よ、前に述べた・・・ 有島武郎 「片信」
・・・ 自己主張的傾向が、数年前我々がその新しき思索的生活を始めた当初からして、一方それと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向と結合していたことは事実である。そうしてこれはしばしば後者の一つの属性のごとく取扱われてきたにかかわらず、近来(・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・歴史とは大人物の伝記のみとカーライルの喝破した言にいくぶんなりともその理を認むる者は、かの慾望の偉大なる権威とその壮厳なる勝利とを否定し去ることはとうていできぬであろう。自由に対する慾望とは、啻に政治上または経済上の束縛から個人の意志を解放・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・車麩の鼠に怯えた様子では、同行を否定されそうな形勢だった処から、「お町さん、念仏を唱えるばかり吃驚した、厠の戸の白い手も、先へ入っていた女が、人影に急いで扉を閉めただけの事で、何でもないのだ。」と、おくれ馳せながら、正体見たり枯尾花流に――・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・私は、必ずしも、それを否定はしないが、また、その言を正直に信ずるものでない。なぜなら、人生のための芸術でなくて、事実虚名のためであり、虚栄のためであるからです。しからざれば、自己享楽の所産なりと言うを憚らぬからです。「人生を語る」という・・・ 小川未明 「自分を鞭打つ感激より」
・・・この意味に於て平和への途は、強権を否定して、他の真理に道を見出すことである。所有することに於て、幸福を見出すものと、無欲に帰することによって、幸福の本質を異にするからだ。 いかなる場合にも、自からを偽ることなく、朗らかな気持になって、勇・・・ 小川未明 「自由なる空想」
・・・あんなに仲よくしていたのに、ひょっとしたら嫌われたのではないかと心配して、やがて十日も顔を見ないと、もう明らかに豹一を好いてる気持を否定しかねた。だから、二週間ほど経って、ふと彼の姿を見つけると、ほッとしてずいぶんいそいそした。しかるに豹一・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫