・・・通りすぎながら、二人が尻眼に容子を窺うと、ただふだんと変っているのは、例の鍵惣が乗って来た車だけで、これは遠くで眺めたのよりもずっと手前、ちょうど左官屋の水口の前に太ゴムの轍を威かつく止めて、バットの吸殻を耳にはさんだ車夫が、もっともそうに・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・と、うっかり平吉の言う事も聞落したらしかったのが、織次が膝に落ちた吸殻の灰を弾いて、はっとしたように瞼を染めた。 六「さて、どうも更りましては、何んとも申訳のない御無沙汰で。否、もう、そりゃ実に、烏の鳴かぬ日はあ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 雑所は前のめりに俯向いて、一服吸った後を、口でふっふっと吹落して、雁首を取って返して、吸殻を丁寧に灰に突込み、「閉込んでおいても風が揺って、吸殻一つも吹飛ばしそうでならん。危いよ、こんな日は。」 とまた一つ灰を浴せた。瞳を返し・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 蝙蝠が居そうな鼻の穴に、煙は残って、火皿に白くなった吸殻を、ふっふっと、爺は掌の皺に吹落し、眉をしかめて、念のために、火の気のないのを目でためて、吹落すと、葉末にかかって、ぽすぽすと消える処を、もう一つ破草履で、ぐいと踏んで、「よ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ パッパッと田舎の親仁が、掌へ吸殻を転がして、煙管にズーズーと脂の音。くく、とどこかで鳩の声。茜の姉も三四人、鬱金の婆様に、菜畠の阿媽も交って、どれも口を開けていた。 が、あ、と押魂消て、ばらりと退くと、そこの横手の開戸口から、艶麗・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・「いや、配給もあるし、ない時は吸殻をパイプで吸うし、しかし二千円はまず吸うかな」「じゃ、いくら稼いでも皆煙にしてしまうわけだ。少し減らしたらどうだ」「そう思ってるんだが、仕事をはじめると、つい夢中で吸ってしまう。けちけち吸ってい・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・自分はその辺りに転っている鉋屑を見、そして自分があまり注意もせずに煙草の吸殻を捨てるのに気がつき、危いぞと思った。そんなことが頭に残っていたからであろう、近くに二度ほど火事があった、そのたびに漠とした、捕縛されそうな不安に襲われた。「この辺・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・まだ笑ったばかりの耳元へ旦那のお来臨と二十銭銀貨に忠義を売るお何どんの注進ちぇッと舌打ちしながら明日と詞約えて裏口から逃しやッたる跡の気のもめ方もしや以前の歌川へ火が附きはすまいかと心配ありげに撲いた吸殻、落ちかけて落ちぬを何の呪いかあわて・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ただ、もう、私のチョッキのボタンがどうのこうの煙草の吸殻がどうのこうの、そんなこと、朝から晩まで、がみがみ言って、おかげで私は、研究も何も、めちゃめちゃだ。おまえとわかれて、たちどころに私は、チョッキのボタンを全部、むしり取ってしまって、そ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ 火の消えない吸殻を掌に入れて転がしながら、それで次の一服を吸付けるという芸当も真似をした。この方はそんなに六かしくはなかったが時々はずいぶん痛い思いをしたようである。やはりそれが出来ないと一人前の男になれないような気がしたものらしい。・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
出典:青空文庫