・・・私は、呆然とした。ただその先輩から、結婚のしるしの盃をいただいて、そうして、そのまま嫁を連れて帰ろうと思っていたのだ。やがて、中畑さんと北さんが、笑いながらそろってやって来た。中畑さんは国民服、北さんはモーニング。「はじめましょう、はじ・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・錯乱したひとみたいに眼つきをかえて、客間とお勝手のあいだを走り狂い、お鍋をひっくりかえしたりお皿をわったり、すみませんねえ、すみませんねえ、と女中の私におわびを言い、そうしてお客のお帰りになった後は、呆然として客間にひとりでぐったり横坐りに・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・そういった、アマツール的な気持からは、ただ、太宰治のくるしみを、肉体的に感じてくるばかりで、傍観者として呆然としているばかりである。僕自身へ巣くう生半可な態度は、おそらくいつまでもつづくことと思われます。僕の健康は、人に思われてるほど、わる・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・すなわち、呆然として退場しなければならぬ。気を取りなおして、よし、もういちど、と更に戸外の長蛇の如き列の末尾について、順番を待つ。これを三度、四度ほど繰り返して、身心共に疲れてぐたりとなり、ああ酔った、と力無く呟いて帰途につくのである。国内・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・この火事を呆然として見ていれば全市は数時間で火の海になる事は請け合いである。その際もしも全市民が協力して一生懸命に消火にかかったらどうなるか。市民二百万としてその五分の一だけが消火作業になんらかの方法で手を貸しうると仮定すると、四十万人の手・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・この火事を呆然として見ていれば全市は数時間で火の海になる事は請合いである。その際もしも全市民が協力して一生懸命に消火にかかったらどうなるか。市民二百万としてその五分の一だけが消火作業に何らかの方法で手を借し得ると仮定すると、四十万人の手で五・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・ と、こたえながら、三吉はほんとに呆然としている自分をみた。これはいったいどういうことなのか――前こごみになっている彼女の肩や、紅と紫の合せ帯をしている腰のへん――もうそこにはきのうまでの幻影はかげを消していた。いつもそこで岐れ道になっ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ 利平は、呆然としてしまった。 そんな筈はない……確かに会社の中へ、トラックで送り込んだ筈の利助だったのが……しかし、まごうべくなく利助は、素ッ裸で革命歌を歌っているのだ。「皆さん、着物を着て下さい。御飯も出来ましたよ」 女・・・ 徳永直 「眼」
・・・(特務曹長ピストルを擬したるまま呆然として佇立す。大将ピストルを奪バナナン大将「もうわかった。お前たちの心底は見届けた。お前たちの誠心に較べてはおれの勲章などは実に何でもないじゃ。おお神はほめられよ。実におん眼からみ・・・ 宮沢賢治 「饑餓陣営」
・・・ 相手は、暫く呆然とされるままになって居たが、やがてはっきり「いやです」と云った。それでも、気の違って居る人は承知しない。猶も執念くつきまとう。終に、男は実に断然たる口調で、「厭だと云ったらいやです」と云いさま、手を振も・・・ 宮本百合子 「或日」
出典:青空文庫