・・・ 四 その時あの印度人の婆さんは、ランプを消した二階の部屋の机に、魔法の書物を拡げながら、頻に呪文を唱えていました。書物は香炉の火の光に、暗い中でも文字だけは、ぼんやり浮き上らせているのです。 婆さんの前には心配・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・さあ、もう呪文なぞを唱えるのはおやめなさい。」 オルガンティノはやむを得ず、不愉快そうに腕組をしたまま、老人と一しょに歩き出した。「あなたは天主教を弘めに来ていますね、――」 老人は静かに話し出した。「それも悪い事ではないか・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・お君さんにとって田中君は、宝窟の扉を開くべき秘密の呪文を心得ているアリ・ババとさらに違いはない。その呪文が唱えられた時、いかなる未知の歓楽境がお君さんの前に出現するか。――さっきから月を眺めて月を眺めないお君さんが、風に煽られた海のごとく、・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・それから自分も裸のまま、左の手には裸蝋燭をともし、右の手には鏡を執って、お敏の前へ立ちはだかりながら、口の内に秘密の呪文を念じて、鏡を相手につきつけつきつけ、一心不乱に祈念をこめる――これだけでも普通の女なら、気を失うのに違いありませんが、・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 勿体ぶって笠井が護符を押いただき、それで赤坊の腹部を呪文を称えながら撫で廻わすのが唯一の力に思われた。傍にいる人たちも奇蹟の現われるのを待つように笠井のする事を見守っていた。赤坊は力のない哀れな声で泣きつづけた。仁右衛門は腸をむしられ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・法だの、九字を切るだのと申しまして、不思議なことをするのでありますが、もっともこの宗門の出家方は、始めから寒垢離、断食など種々な方法で法を修するのでございまして、向うに目指す品物を置いて、これに向って呪文を唱え、印を結んで、錬磨の功を積むの・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・君は、ジュムゲジュムゲ、イモクテネなどの気ちがいの呪文の言葉をはたして誦したかどうか。その呪文を述べたときに、君は、どのような顔つきをしたか、自ら称して、最高級、最低級の両意識家とやらの君が、百円の金銭のために、小生如き住所も身分も不明のも・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・何の事だか、まるでナンセンスのようでございますが、しかし、感覚的にぞっとするほどイヤな、まるで地獄の妖婆の呪文みたいな、まことに異様な気持のする言葉で、あんな脳の悪い女でも、こんな不愉快きわまる戦慄の言葉を案出し投げつけて寄こす事が出来ると・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・すると、その言葉が何か魔除けの呪文ででもあったかのように、塀の上の目鼻も判然としない杓文字に似た小さい顔が、すっと消えた。跡には、ゆすら梅が白く咲いていた。 私は、恐怖よりも、侮辱を感じた。ばかにしてやがる、と思った。本来の私ならば、こ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ ちなみに太郎の仙術の奥義は、懐手して柱か塀によりかかりぼんやり立ったままで、面白くない、面白くない、面白くない、面白くない、面白くないという呪文を何十ぺん何百ぺんとなくくりかえしくりかえし低音でとなえ、ついに無我の境地にはいりこむこと・・・ 太宰治 「ロマネスク」
出典:青空文庫