・・・老爺は、びしょ濡れになって、よたよた走り、ううむ、ううむと苦しげに呻くのである。私は、ただ叱った。「なんだ、苦しくもないのに大袈裟に呻いて、根性が浅間しいぞ! もっと走れ!」私は悪魔の本性を暴露していた。 私は、その夜、やっとわかっ・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・けれども、案外にも、どこか一つ大きく抜けているところがあると見えて、掏摸の親方になれなかったばかりか、いやもう、みっともない失敗の連続で、以後十数年間、泣いたりわめいたり、きざに唸るやら呻くやら大変な騒ぎでありました。 それ、ごらん。そ・・・ 太宰治 「小さいアルバム」
・・・あさ、眠りながら苦しげに呻く。呻きが、つづく。お母さん、お母さん。 ああ、(と眼ざめて深い溜息ああ、お前かい。 どこか、お苦しい? いいえ、何だかいやな、おそろしい夢を見て、……睦子は? けさ早く、おじいちゃ・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・と、一人の男が一体どこから飛び出したのか、危く打つかりそうになるほどの近くに突っ立って、押し殺すような小さな声で呻くように云った。「ピー、カンカンか」 私はポカンとそこへつっ立っていた。私は余り出し抜けなので、その男の顔を穴のあく程・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・彼女はこみあげて来る心に堪えかねて呻くのだ、その呻きとプーシュキンの詩句とがきっちり結びつけて離れない。そういうものだろうと思う。マーシャを演じた女優は、此点、掴みようが足りなく感じられた。そして、其が全般に及ぼしているらしく思われた。・・・ 宮本百合子 「「三人姉妹」のマーシャ」
・・・しかも、当時一般の心理は、このような歴史的文学の題材とテーマに対しては極めて複雑にふれて行っていて、一定の経歴をもった作者たちが自身の傷敗の歌を痛ましげに呻けば呻くほど、人間性の流露としてそれを高く評価したい感情の傾きにおかれていたことは興・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・その癖片はじから忘れたり、事件を混同したりして呻くのであった。 やがて、ゴーリキイは主人達の寝台の下へ突込まれたままになっている『絵画評論』『火』などという雑誌を、台処へ持ちこむ権利を獲得した。しかし、台処の蝋燭は毎晩居間へ持って行かれ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・ 長く引っぱって呻くように唄う言葉は分らないが、震えながら身を揉むようなマンドリンの音と、愁わしげに優しい低い音で絡み合うギターの響は、せきの凋びた胸にも一種の心持をかき立てるようであった。下町の人間らしい音曲ずきから暫く耳を傾けていた・・・ 宮本百合子 「街」
出典:青空文庫