・・・と、身仕度をする間も惜しいように、編笠をかなぐり捨てるが早いか、「瀬沼兵衛、加納求馬が兄分、津崎左近が助太刀覚えたか。」と呼びかけながら、刀を抜き放って飛びかかった。が、相手は編笠をかぶったまま、騒ぐ気色もなく左近を見て、「うろたえ者め。人・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・といって呼びとめた。振向いた子供たちは「まだか」の立っているのを見ると三人とも恐ろしさに顔の色を変えてしまった。殴りつけられる時するように腕をまげて目八分の所にやって、逃げ出す事もし得ないでいた。「童子連は何条いうて他人の畑さ踏み込んだ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・十五人の男の歩く足音は、穹窿になっている廊下に反響を呼び起して、丁度大きな鉛の弾丸か何かを蒔き散らすようである。 処刑をする広間はもうすっかり明るくなっている。格子のある高い窓から、灰色の朝の明りが冷たい床の上に落ちている。一間は這入っ・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ ああ居てくれれば可かった、と奴の名を心ゆかし、女房は気転らしく呼びながら、また納戸へ。 十四 強盗に出逢ったような、居もせぬ奴を呼んだのも、我ながら、それにさへ、動悸は一倍高うなる。 女房は連りに心急い・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 省作はここにまごまごしていると、すぐ呼びたてられるから、今しばらく家のものの視線を避けようとしていると、おはまが水くみにきた。「省さん、今日はきっと負かしてやります」「ばかいえ、手前なんかに片手だって負けっこなしだ」「そっ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ まもなく後に菊酒屋と云う有名な酒屋にやった所がここも秋口から物やかましいといやがられたので又、ここも縁がないのだからしかたがないと云って呼びかえした。其後又、今度は貸金までして仕度をして何にも商ばいをしない家にやるとここも人手が少なく・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・主人の姉――名はお貞――というのが、昔からのえら物で、そこの女将たる実権を握っていて、地方有志の宴会にでも出ると、井筒屋の女将お貞婆さんと言えば、なかなか幅が利く代り、家にいては、主人夫婦を呼び棄てにして、少しでもその意地の悪い心に落ちない・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・かつ椿岳は維新の時、事実上淡島屋から別戸して小林城三と名乗っていたから、本当は淡島椿岳でなくて小林椿岳であるはずだが、世間は前身の淡島屋を能く知ってるので淡島椿岳と呼び、椿岳自身もまた淡島と名乗っていた。が、実は小林であったか、淡島であった・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そして、私たちをだまして、水の上へ呼び寄せようとしているのです。もし、いってごらん。人間が、大きな網で、みんなすくってしまうから……。」と、いいきかせました。 子供は、なんという怖ろしいことだろうと思いました。じっと、水の底に沈んで、暗・・・ 小川未明 「魚と白鳥」
・・・と言いながら、手を叩いて女中を呼び、「おい姐さん、銚子の代りを……熱く頼むよ。それから間鴨をもう二人前、雑物を交ぜてね」 で、間もなくお誂えが来る。男は徳利を取り揚げて、「さあ、熱いのが来たから、一つ注ごう」 女も今度は素直に盃を受・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫