・・・私は学校にいた時呼吸器を悪くして三月許り休学していたことがある。徴兵官は私の返答をきくとそりゃ惜しいことをしたなと言い、そしてジロリと私の頭髪を見て、この頃そういう髪の型が流行しているらしいが、流行を追うのは知識人らしくないと言った。私はい・・・ 織田作之助 「髪」
・・・一間ばかりの所を一朝かかって居去って、旧の処へ辛うじて辿着きは着いたが、さて新鮮の空気を呼吸し得たは束の間、尤も形の徐々壊出した死骸を六歩と離れぬ所で新鮮の空気の沙汰も可笑しいかも知れぬが――束の間で、風が変って今度は正面に此方へ吹付ける、・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 彼は何気ない風して言ったが、呼吸も詰るような気がされた。「なるほど俺もああかな、……なるほど俺と似ているわい」 彼はそこそこに屋根に下りて、書斎に引っこんでしまった。 青い顔して、人目を避けて、引っこんでいる耕吉の生活は、村の・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・この時脈は百三十を越して、時々結滞あり、呼吸は四十でした。すると、病人は直ぐ「看護婦さん、そりゃ間違っているでしょう。お母さん脈」といって手を差出しました。私はその手を握りながら「ああ脈は百十だね、呼吸は三十二」と訂正しました。普段から、こ・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・窓のなかの二人はまるで彼の呼吸を呼吸しているようであり、彼はまた二人の呼吸を呼吸しているようである、そのときの恍惚とした心の陶酔を思い出していた。「それに比べて」と彼は考え続けた。「俺が彼女に対しているときはどうであろう。俺はまるで・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・さてさらに貴嬢の解し難きものの一を言わんか、この気を呼吸するかの二郎なり。何ゆえぞと問いたまいそ、貴嬢もしよくこれを解し得る少女ならんにはいかで暗き穴よりかの無残なる箭を放たんや。二郎述べおわりて座につくや拍手勇ましく起こり、かれが周囲には・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・肺尖の呼吸音は澄んで、一つの雑音も聞えたことはなかった。それが、雪の中で冬を過し、夏、道路に棄てられた馬糞が乾燥してほこりになり、空中にとびまわる、それを呼吸しているうちに、いつのまにか、肉が落ち、咳が出るようになってしまった。気候が悪いの・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・時々寒い朝の呼吸のような白い煙を円くはきながら。 * その暮れ方、土工夫らはいつものように、棒頭に守られながら現場から帰ってきた。背から受ける夕日に、鶴尖やスコップをかついでいる姿が前の方に長く影をひいた。ちょうど飯場へ・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・物数寄な家族のもののあつまりのことで、花の風情を人の姿に見立て、あるものには大音羽屋、あるものには橘屋、あるものには勉強家などの名がついたというのも、見るからにみずみずしい生気を呼吸する草の一もとを頼もうとするからの戯れであった。時には、大・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・私は風呂へ入って呼吸が苦しく死にそうになります。ふらふらして流し場から脱衣場へ逃れ出ようとすると、佐吉さんは私を掴え、髯がのびて居ます。剃ってあげましょう、と親切に言って下さるので、私は又も断り切れず、ええ、お願いします、と頼んでしまうので・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
出典:青空文庫